秋深し。サラ・ケインもまた深し
2004年 11月 17日
11月16日(火)
取手はすっかり秋模様でございます。
12月8日から開催されるアートパスにむけて、学生たちは作品作りに余念がありません。私もここのところは、11日土曜日に上演する「4時48分サイコシス」のリーディングに向けて、戯曲の読み込みにあけくれてます。
今日はメインテーマとなるコンセプトの決定をするはずだったのだが、話し合いは3時間過ぎても収束する様子をみせない。何が問題なのか。この戯曲を通してサラは何を提示したのか。
一節をとりあげてみよう。
「すべての行為は象徴的である
その重みが私を押しつぶす
のどのところにある点線
「ここをお切り下さい」
コンナコトノタメニ私ヲ死ナサナイデ
私ハ殺サレ、押シツブサレ、地獄ニ送ラレヨウトシテイルノヨ
御願い、私を食い付くそうとするこの狂気から私を救って
半ば意図的な死 」
「お願いだから、死因を調べるために私を解剖したりしないで
どうやって死んだかはこれから言うわ
ロフェプラミン百錠、ゾピクローン45錠、テマゼパム25錠、
メレリル20錠
ありったけのもの全部
のんで
手首を切って
首を吊ったの 」
この戯曲の作者サラは、実際にこの戯曲を書いた後、自殺している。
台詞はばらばらで戯曲の形式も成していない。これだけ読むとだれかの遺書のようだが、ここで気をつけなければならないのは、これはサラの遺作ではあるが遺書ではない、ということだ。
サラ・ケインは、「暴力」や「破壊」を凄惨に描いたことで一躍有名になった、ポスト・サッチャリズムに心待ちにされていた作家である。「個」が前面に押し出された代わりに社会から見放された個人もいる。徹底した資本主義と個人主義の価値観の浸透により、貧富の差がさらに広がり、社会不安は増大する。その鬱屈した現代の若者の声が暴発したかのように、サラケインの筆は社会を斬り、撃ち、古い因習の残るいイギリス演劇界の常識までも木っ端みじんに打ち砕いた。
だが、彼女の戦いは過酷なものだった。
容赦ない批判の声に傷付くことはなくても、同じ位の賞賛の声はさらなる圧力を彼女に加え、その筆から少しでも多く搾取しようとする。憔悴し、筆が折れても書き続けなければならない。戦い続けなければならない。やがて彼女の心は蝕まれていく。いかにしてもこの現状を救えない、その無力感にとらわれたが最後、病魔は近かった。その無力感こそ彼女がもっとも敵視していた、イギリス全土を席巻する「虚無感」の先鋒部隊だったのだが。重い鬱病と診断された彼女は、病室で、自室で、自分が一番明晰になる明け方の4時48分にこの戯曲を書き付ける。もはや死ぬしかないことを知っていながら。
では、彼女は戦いに負けたのか?
否。勝つためには、死ななければならないことを知っていた。
この戯曲は、明らかに脱稿後作者が死ぬことを織り込んで書かれたものである。
サラケインは、確信犯的に、最後の戦いを挑んだのである。リーサル・ウェポンは彼女自身の死によって引き金を引かれ、そしてそれはまさに彼女のもくろみどおり、ヨーロッパ中を震撼させた。
だからこれは、彼女の遺書ではなく、「最終兵器」なのだ。
・・・というのが、なんとなくあたしが思っていることなんだけどな。演出プランにどう反映させていくか・・・だなあ。はあ〜(長いため息)
取手はすっかり秋模様でございます。
12月8日から開催されるアートパスにむけて、学生たちは作品作りに余念がありません。私もここのところは、11日土曜日に上演する「4時48分サイコシス」のリーディングに向けて、戯曲の読み込みにあけくれてます。
今日はメインテーマとなるコンセプトの決定をするはずだったのだが、話し合いは3時間過ぎても収束する様子をみせない。何が問題なのか。この戯曲を通してサラは何を提示したのか。
一節をとりあげてみよう。
「すべての行為は象徴的である
その重みが私を押しつぶす
のどのところにある点線
「ここをお切り下さい」
コンナコトノタメニ私ヲ死ナサナイデ
私ハ殺サレ、押シツブサレ、地獄ニ送ラレヨウトシテイルノヨ
御願い、私を食い付くそうとするこの狂気から私を救って
半ば意図的な死 」
「お願いだから、死因を調べるために私を解剖したりしないで
どうやって死んだかはこれから言うわ
ロフェプラミン百錠、ゾピクローン45錠、テマゼパム25錠、
メレリル20錠
ありったけのもの全部
のんで
手首を切って
首を吊ったの 」
この戯曲の作者サラは、実際にこの戯曲を書いた後、自殺している。
台詞はばらばらで戯曲の形式も成していない。これだけ読むとだれかの遺書のようだが、ここで気をつけなければならないのは、これはサラの遺作ではあるが遺書ではない、ということだ。
サラ・ケインは、「暴力」や「破壊」を凄惨に描いたことで一躍有名になった、ポスト・サッチャリズムに心待ちにされていた作家である。「個」が前面に押し出された代わりに社会から見放された個人もいる。徹底した資本主義と個人主義の価値観の浸透により、貧富の差がさらに広がり、社会不安は増大する。その鬱屈した現代の若者の声が暴発したかのように、サラケインの筆は社会を斬り、撃ち、古い因習の残るいイギリス演劇界の常識までも木っ端みじんに打ち砕いた。
だが、彼女の戦いは過酷なものだった。
容赦ない批判の声に傷付くことはなくても、同じ位の賞賛の声はさらなる圧力を彼女に加え、その筆から少しでも多く搾取しようとする。憔悴し、筆が折れても書き続けなければならない。戦い続けなければならない。やがて彼女の心は蝕まれていく。いかにしてもこの現状を救えない、その無力感にとらわれたが最後、病魔は近かった。その無力感こそ彼女がもっとも敵視していた、イギリス全土を席巻する「虚無感」の先鋒部隊だったのだが。重い鬱病と診断された彼女は、病室で、自室で、自分が一番明晰になる明け方の4時48分にこの戯曲を書き付ける。もはや死ぬしかないことを知っていながら。
では、彼女は戦いに負けたのか?
否。勝つためには、死ななければならないことを知っていた。
この戯曲は、明らかに脱稿後作者が死ぬことを織り込んで書かれたものである。
サラケインは、確信犯的に、最後の戦いを挑んだのである。リーサル・ウェポンは彼女自身の死によって引き金を引かれ、そしてそれはまさに彼女のもくろみどおり、ヨーロッパ中を震撼させた。
だからこれは、彼女の遺書ではなく、「最終兵器」なのだ。
・・・というのが、なんとなくあたしが思っていることなんだけどな。演出プランにどう反映させていくか・・・だなあ。はあ〜(長いため息)
by uronna
| 2004-11-17 02:32
| 舞台のおはなし