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やっと観られた 「走れメルス」

1月9日(日)
立ち見で行ってきました。
年末に観劇を予定していたんだけど、これも突然の食中毒騒動に妨げられていた。

もともと立ち見狙いだったのでコクーンには11時半頃着いたのだけど、既に二階のエレベーター近くまで列ができている。これはかなり激しいな。
それでも待つこと1時間半、狙い通り立ち見の後ろの方をゲットできた。

人気の理由は、キャストにもあるだろう。
(人にもよるだろうケド)今回は特にゴージャスだ。深津絵里、小西真奈美に加え、峯村リエ、濱田マリ、池谷のぶえといった女優陣の名前を見ただけでも「見たい」という気持ちになる。
さらに、古田新太、河原雅彦、浅野和之、そしてカムカムの松村さんはでてるし、なんか「座長祭り」な感じだなあ。(そんなイベントあったなあ、そういえば)

あ、ストーリーについては、他ブログを参照してくださいね。(笑
とにかく、印象としては「すげえな。野田の初期の作品って『アングラ』だったんだ。」言葉遊びも、洗練されてないけどパワーがある。無理やりなところに面白さがある。「分別の無い」若者の、一見破天荒を装った確信犯的な撹乱操作に、当時の観客も演劇界もさぞ揺すぶられたことだろう。
今見てしまうと、どうしても最近の作品と比べてしまいがちだが、この作品は76年に発表されて、多少の書き換えはあるにしても約30年たった今、再演されたものなのだ、。そのまま野田秀樹という個人の思想史の初期を見せられているようでそれだけでも非常に興味深い。新進気鋭の若手作家の作品、という位置づけか、いまや日本の演劇界のメインストリームと成り上がった野田の作品として観るかという違いもある。
私たちのように30年前の作品や、遊民社時代の作品を物理的に観られていない世代の人間が気をつけなければいけないのは、「いま、目の前で起きていることが本当に面白いのか。」を考え、周りの笑いに引きずられないようにすることだ。「わからなくても、面白い」じゃだめだし、「なんだかわからないからつまらない」でもだめだ。何で「今も」野田の作品が「自分にとって」面白いのかという答えが自分なりにでていないと、決してこの鬼才以上のものを創ることなんかできない。

最近、再演の作品が多いなあと思っていた。NODA・MAPだけではない。色々な劇団で昔の作品を掘り起こして上演することが増えている。なぜだろうと思っていたのだが、野田秀樹のコメントを読んでいたら、ちょっと腑に落ちる部分があったので引用する。

「何ゆえ、いまさら私がこの古い『若い』芝居をやろうと思ったのか。どうも近頃の新しい『若い』芝居を面白いと思えないからだ。」「世界の中心で、わかりきった愛なんか叫んでる場合じゃない。『助けてくださあい』じゃない。誰も助けねえよ。」「この走れメルスは古い『若い』表現者からの、今の『若い』表現者への挑発であり挑戦である。」(公演パンフより)

今更言うこともないけど野田さんって、頭いいしズルイよね。
前にラッパ屋の芝居を見たときにも思ったんだが、やっぱりいま40代くらいのヒトが作・演出している芝居って、「強い」んだ。新劇とかアングラとか、ジャンルを越えて日本の現代演劇を創ってきたっていう自信が、ゆるがない作風に滲み出ている。
挑戦しつづけてきたものは、あくまで挑戦者であり続けたいのだ。当然だ、挑戦される側に回るのには本人にはメリットがあまり無いからである。そういえば最近テレビを見ていたら、K-1の魔裟斗が年末の特番で格下の選手と戦ったことを「勝って当然、負けたら評価が下がるだけの挑戦をよく受けた。」と誉められていたけれど、君子・野田はファイターではないから、「稚拙な企み」と野田が呼ぶところのそんな挑戦に受けて立つほどの「分別はない」のそうだ。(←これは暗に俺には分別がある、ということだろう。本当のところ。)

「そんなもの待ってはいられない。悪いけど、先へ行く。」だってさ。

永遠の少年を追いかけるのはなかなか骨の居る作業ですね。


会場で売っていた本たち↓
解散後全劇作
20世紀最後の戯曲集
二十一世紀最初の戯曲集
by uronna | 2005-01-09 21:29 | 劇評、書評、映画評

復活。


by kawasaki Alice