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坂手洋二のストレートプレイ、ね。

9月7日
ウィンズロウ・ボーイ 初日
ラティガンまつり 俳優座劇場
テレンス・ラティガン作
坂手洋二演出
キャスト 中嶋しゅう 中田喜子ほか

 自転車キンクリートSTOREの公演にご招待頂いたので観にいってきた。文学座の知り合いの演出家が、実は今日から公演でどちらにするか迷ったのだが、そちらは完璧なる出来を期待して千秋楽に観せてもらうことにし、今日は俳優座を選択。
普段新劇系の演劇をあまり見ない私にして、(実際の内容はともかくとして)この二択はなんだかなあ…。因縁を感じる。

 ストーリーを簡単に説明すると、将来有望な末っ子のロニーが、5シリング盗んだ疑いをかけられて、オズボーン海軍士官学校を退学させられてロンドンのウィンズロウ家に送り返されてくるところから物語は始まる。父親のアーサーは訴訟によって息子の無実を証明しようとし、結婚を控えた長女のケイト、オックスフォードで楽しい学校生活を送っていた長男のディッキーの将来は軒並み犠牲になる。高名な弁護士サー・ロバートを雇ったことで一家の財政は窮乏し、長年雇っていたメイドを解雇する始末。母親のグレイスはこんなことに意味があるのかと夫に泣きつくが、訴訟はついに法廷に持ち込まれて…。

ラティガンというのは、40年代〜50年代に活躍した英国の劇作家で、「一昔前」の「イギリスの」「上流階級の」話ということで、話としてはまあ、遠いわけだ。しかしながら、これは古き良き時代の「家族」の話であり、こんなにそれぞれの役割がはっきりしていた時代があったのだと、現代を生きる我々には新鮮な印象を与えるかもしれない。最近の小説や芝居では、「家族の役割の喪失」ばかりが脚光を浴び、その再生を描くにしろ、崩壊を描くにしろ、その礎となっているもともとの確固たる家族の形に対するこだわりが希薄になっている気がしていた。

このウィンズロウ・ボーイでは、ひたすらに父は父であり続けようとし、母は一家の太陽でありつづける。姉は恋人よりも二人の弟を慈しみ、兄は弟に対する嫉みを隠し、自分の学歴を犠牲にして就職したりする。家族の絆、と言ってしまえばあまりに簡単だが、末っ子にふりかかった濡衣という大事件に、家族の構成員がそれぞれの立場から立ち向かっていく(積極的であるか消極的であるかというのもひとつの選択肢として)姿がただ観客の胸を打つのである。

 題材はもちろん面白いし、演劇的に言えばサー・ロバート卿がロニーを反対尋問するシーンなどは思わず息をのむほどの気迫である。昔から裁判劇は数多くあるが、それはやはり裁く側、裁かれる側の心理対決、有罪か無罪かといった単純な事実の秘匿の戦術、あるいは暴露の瞬間のスリル、そういったものが演劇的な効果と密接に結びついているからに違いない。言ってみれば確かにラティガンの戯曲は面白いのだ。しかし、こういった大きな公演がただの戯曲紹介になってしまっていいのか?という疑問が生じる。今回の趣旨は、ラティガンを日本の観客に紹介しよう、みたいな試みだと最初から銘打っているので、これでいいのかもしれないが、それは翻訳戯曲をやる上で私も今回何度も考え、頭を悩ませた問題なので、簡単に「これでいい」とは言えないのだ。

 こういった作品の場合演出家は何をしているのだろう?実は私はその答えを知っている。演出家はちっともさぼったり遊んだりしているわけでなく、役者と一緒に稽古場で呻吟しているのだ。おそらく大きなコンセプトをもって役者に初めから地図を示すことのできる演出家より、大変な思いをしている。ひとつひとつのシーンが成り立っているかどうかをきちんと見極め、より効果的に見える配置だったり台詞の喋り方だったりを役者と一緒に決めていく。
 やはり、「演出家の仕事とはなにか」という問題に突き当たる。
演出家が100人いたとしたら、100通りのメソッド、方法論、考えがあり、一つの戯曲を与えたとしてもそこから100通りの解釈が生まれる、そういうものだ。だからこれが演出家の仕事だと決めつけることは絶対にできない。「どこでどんな芝居を誰に向けて作りたいのか」ということによって住み分けが生じる。

 ちなみに坂手さんのコメントに「私にとって初めてのストレートプレイである」と書いてあったが、これには笑ってしまった。そうか、坂手さんがいつもやっているような芝居は彼にとってはストレートプレイではないのか。「ストレートプレイ」の定義にも100通りの線引きがありそうである。
by uronna | 2005-09-07 23:50 | 劇評、書評、映画評

復活。


by kawasaki Alice