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松山バレエ団「ドン・キホーテ」

1月28日(金)

北とぴあにて松山バレエ団の「ドン・キホーテ」を観劇。

船の時の友人が、松山バレエ団の事務局で働いていて、ご招待してくれたのだ。

ちょうど昨日、ダンスに関するレポートを書いたばかりだったので、バレエを観たい気分でもあった。だって桜井さんの『西麻布ダンス教室』だって、始まりはちゃんとマリウス・プティパだったりするんだから。

『ドンキホーテ』の話の内容を、明確に思い出せる人はどのくらい居るんだろう。
小さい頃読んだ時は妄想癖のある老騎士と、ロバに乗ったサンチョパンサの愉快な旅物語、という印象しか残らなかったけれど、セルバンテスの長い小説を読むと、人間の生死について深く掘り下げた深遠で長大な話なのである。ただバレエという表現方法だと、言葉がないだけにその文学的な部分はあまり強調せず、老騎士のせつないくらいの「憧れ」が前面に押しだされ、それが観客につたわって胸が締め付けられるような感動に変わるのね。言葉というものがいかに余分な概念を付帯しているか、バレエや完成度の高いダンスを観るといつも考えさせられる。

会場は、ひっつめ髪にしたほっそいお嬢様(推定3歳~12歳くらい)と引率のハイソなお母様方で溢れかえっている。こんな雰囲気、本当に久しぶりだ。。。(幼い頃は妹がバレエをやっていたので、私もよく観に連れて行かれたものだった。) バレエについて造詣があまりないので、あまり批評めいたことを書くのは差し控えるが、「踊りも変わりつつあるのだ」という実感だけはしっかりもらったことをここに記しておく。

どういうことかというと、これが「バレエだ」という動きだけでなく、「え?こんなこともするの?」というような振り付けがところどころ入っていたりするのだ。例えば一幕、バジルが地面を這うような一見ブレイクダンス?と思うような動きをしたりする。「バレエでは、地面に決して手をつかない」というのはもはや古い認識のようだ。
また、二幕で二人きりになれたキトリとバジルが愛を確かめ合いながら踊るシーンは、恰もピナ・バウシュの舞台に出てきそうな斬新で意味深長な「舞台と身体の関係性」を見せていた。まあピナバウシュだってもともとあんな踊りをしていたわけではないのである。バレエはやはり『「とりあえず」モノサシになる』と桜井さんが言うように、基本であって、そこからもう本当に色々なものが生まれてくるのだろう。

松山バレエ団の演出は、とりたてて「斬新」というものではないが、それでも「松山でもこういうことをやっているのか」と考えを改めるくらいの面白さは持っていた。第三幕は「オペラか?」と見紛うほどの「演劇性」をも持ち、幕が降りるころには適度な満足感で気分が軽く高揚するくらいだった。グラン・パ・ド・ドゥや、踊り子さんの足の美しさだけが見ものではないよ。(思ってないって?)…バレエもどんどん面白くなって欲しいと思うAshleycatなのでした。
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by uronna | 2005-01-28 23:51 | 劇評、書評、映画評

砂連尾理&寺田みさこ+桜井圭介 『O"jaz"Z』

1月27日(THU)

芸術批評演習のレポート提出日せまるっ。
音楽文芸の補講があったので、そちらに顔を出してからレポートにとりかかる。
最近芸大図書館も、環境が整ってきて、自分のPC持込で作業するのが楽になったように見え…でもそのへんに出ていたLANケーブルをサクッと自分のPCに刺した瞬間、隣から声が。「あの、それ僕のですけど。」
そっか、普通はみんなLANケーブルを持ち歩いているのか。。。どうも適当なPCにつながっているケーブルからネットワークをパクる癖が抜けず、、、困ったもんだ。
でもその人優しかったからそのまま使わせてくれた。ありがたい。

で、今回は砂連尾理&寺田みさこ+桜井圭介 『O"jaz"Z』について書いたので、Up!
超、面白かったこれ。
ちなみにこれを書き始めたころに、世田谷パブリックシアターからじゃれみさの次の公演の案内が来てた。なんか、偶然を感じてすぐに申し込んでしまった。「Loves me, or loves me not」だって。ポストトークで『地点』の三浦基さん(青年団を辞めて関西へ行ってしまうらしい)が来るそうなので、楽しみです。


「O(jaz)Z」(砂連尾理+寺田みさこ、桜井圭介コラボレーション作品)について

 誰もいない畳敷きの舞台の奥にはふすま。真ん中に星一徹が引っくり返すには少々大きいかなというサイズのちゃぶ台。クラシックな趣のジャズが流れてい る。畳とジャズ。意外と合うなあと思ってしまうのは、私がジャズのかかっている蕎麦屋を愛していることと関係があるだろうか。男が一人、座布団を持って 登場し、ちゃぶ台の両脇に無造作に置く。こういった日用品が目に入ると空間が急に生活感を帯びる。暗転。
 音楽はメランコリーなジャズに変わる。明かりが入ると、女が上手の座布団の上で倒れている。男が入ってきて、ちゃぶ台を動かして女を起こす。牛乳があ る。女は牛乳を飲む。起き抜けの牛乳はうまい。女は牛乳瓶をちゃぶ台の下に置くと、舞台奥に移動しはじめる。舞台が急に赤くなる。前後に畳の上を滑る 女。そういえば小さい頃、母親の実家の広い和室で、妹とこんな遊びをしたことがある。今にしてみれば何が面白いのかと思うほど単純なのに、飽きずに何度 も滑っていたものだ。女は大人だから飽きてしまったのかどうか、すぐにまた男と向き合って座ってしまう。明かりは元に戻っている。ちゃぶ台の上で腕立し て、男と女は場所を入れ替わる。と、崩れ落ちた。
 また半周してもとに戻った頃、音楽は止んでいる。今度は男も一緒に畳滑りを始めた。そうそう、二人でやるから楽しいのだ。たぶん。今度はしつこいくら いに何度も何度も滑った後、女は下手のふすまを回って後ろに消えてしまう。おいおい、そこは部屋としての空間じゃないだろう、なんか違和感。残された男 はなぜか受け身をとり、思い立ったように真ん中のふすまを開ける。すると女が横を向いて座っている。
 女と男は牛乳を介して確執があるようだ。女が自分をみつめながら牛乳を飲む様子を見て、男は脅えているように見える。今度は、かなり「モダンな」感じのジャズが流れはじめる。男は足で座布団を器用に丸め、女は必死にちゃぶ台を拭いている。と、きれいになったちゃぶ台に顔を埋める。ここでまた赤+無音。男はひっくり返る。誰も触っていないのに、ふすまが開く。

 「あんた牛乳買いにきたでしょ」男が口を開く。
 「長年牛乳売ってると、この人牛乳飲みたいんだ、買いにきたんだ、ってちゃんとわかる。」
女は黙っている。
 「でもあんたには牛乳売れません」女は黙っている。
 「なんでだろうって思うでしょう」女は黙っている。
 「私があんたに牛乳を売りたくないって理屈じゃないの。カンジなの」
  女は黙っている。
 「長年牛乳売ってると、こいつには売りたくないって奴がいるんです。2、
  3年に一人だけど。」 女は、黙っている。

 ふーん、この人牛乳屋さんだったんだ。全然そうは見えないけど。だいたい、売れないって言ってるけどもうこの女、半分以上飲んじゃってるよ。そんな風に心の中で観客が突っ込んでいると、なぜか「真っ赤な太陽~Jazz version~」が流れてくる。
始めのシーンを彷佛とさせる動きが多くなる中、ああもう終わるんだなと思うのだがこれがなかなか終わらない。ちょっとしつこい気もする。
 漸く二人が向かい合って座り、照明が落ちていく。音楽もいつの間にか始めに流れていたものにシンクロしていくようだ。二人の顔に影が落ちていく中、その間に置かれた牛乳瓶だけが白さを増していくのが印象的。そうか、これは和室とジャズと牛乳を巡るものがたりだったのね、と妙に納得。

 以上が、一回きり、しかも映像で見た「O(jaz)Z」の感想である。
おそらく、ライブで見たら全然違うのだろう。じゃれみさ(便利な略称を教えてもらったので使わせてもらう)のダンスの迫力が映像では半減しているから。
彼等のダンスは、2年前のトヨタコレオグラフィーアワードの最終審査の場で一度見たきりだ。あのとき、舞台上にある確実な「存在感」を感じたのはこのデュオだけで、「オーディエンス賞」の票は迷わずこの二人に投じた。用があって発表まで見られなかったので、あとでこの二人が「オーディエンス賞」と「次世代を担う振付家賞」をとったことを知ったのだけど。でも実はこのダンスの内容はあんまり覚えていない。ダンスに対する認識と知識があまりに不足していたので、深く考えることもできなかったのだろう。
 あれから2年も経ち、少しはダンスの歴史も系譜も勉強してきたけれど、コンテンポラリーダンスの定義は相変わらずよくわからない。でもジャズダンスとかヒップホップダンスっていうのは、よく考えると「音楽」のジャンルが頭についているのね。だから「音楽」との関係でそれを考えてみることはそう無駄ではないんじゃないかいと思う。音楽が流れてきて、そのリズムだったり、ジャンルだったりが、善くも悪くもそれぞれの音楽の持つ特性でもって身体を規定してしまったのが今までのダンスであって。そうでないのがコンテンポラリーなのかな、と仮に定義してみたりする。でもコンテンポラリーダンスをやる人たちもはじめからそれをしていたのではなく、小さい頃はバレエをやっていたりするから、それなりの好みやスタイルがあって、やっぱり音やリズムにあわせて振りを入れる人が多いような気がする。だって、拍をとるんだもの。人数が増えてくればますます身体のコンセンサスをとるために、音楽を便利に使っているような気がする。「ハイここで、ばらばらになって、2×8はくねくね動いていて」みたいな。
 でもじゃれみさの場合、それが全然違うみたいだ。二人で同時に動くきっかけすら音ではとっていないような印象を受けた。音楽は彼等の身体に「グルーヴ」を生み出してくれる強い味方で、あるときは主となり、あるときは従となり、交互にコラボレーションしながら舞台を作り上げていく「共演者」なのではないだろうか。この作品のタイトルは「おじゃず」である。「汚ジャズ」だろうか、「御ジャズ」だろうか、それとも「Oh!ジャズ」だろうか。はじめはジャズに合わせて身体をくねらせたりする「ジッターバグ」を連想したりしていたが、すぐにそんな幻想は消えてしまった。彼等二人と牛乳のほかに、明らかに舞台に存在しているのは「ジャズ」という「かたまり」である。音楽がBGMとして存在するのではなく、また身体表現者たちの動きを(拍や強弱などをもって)規定するものとして存在するのでもなく、全く対等の共演者としてそこにいる。我々はそのもう一人の共演者の「顔」や「身体」を、じゃれみさの身体を通して感じることができる。そこでは音楽によってダンサーの身体が動かされているような不自然さもなければ、ダンサーが音に依存して手抜きすることも決して起こり得ない。音楽と身体の妥協しない対話によって創出された舞台上の空間は、緊張と弛緩を適度に繰り返し盛りんだ不思議なノリを持っていた。
 また唐突に男の発する「台詞」は、ひょっとしたら昨日は牛乳じゃなくて大福かなんかだったんじゃないかと思うほどに、「日常」を思わせる。毎日同じマテリアルで一つのストーリーをなぞっているのではなく、これは彼等の日常なのではないかと信じることができるほどに、それは不思議なリアル感をもっていた。それは台詞が「リアル」なのでは全くなくて、その言葉が発せられた時このダンサーたちが生身の人間であるということがとても自然に理解された、という程度のものであるけれど。
 こういう舞台が増えてくれば、舞台芸術と呼ばれるものの境界がますます曖昧になってくることだろう。それは確かに混沌なのだけれど、望ましい方向性であるのではないかと思う。私は、演劇に限らず様々な舞台の表現の形をここ2年間で模索してきた。「ことば」の不完全性をどうやって舞台上で解決していくかを迷い、模索し、まだ途中だけれど、このじゃれみさ+桜井圭介のコラボレーション作品のようなものに出会うと、自分いま必死で考えていることも将来的には形になるだろう、とか、ちょっとは意義があるだろうとか、軽く希望を持つことができる。この音楽と身体の対等な存在感は思いのほか気持ちいいものだったなあ。できれば本当にライブで見てみたかった。再演の話があるみたいなので、是非是非多大な期待をしたいと思っている。
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by uronna | 2005-01-28 23:08 | 劇評、書評、映画評

フランツ・カフカ作「城」 新国立劇場 the pitにて

1月26日(水)

松本修さんが今、新国立劇場で「城」を上演中。これがなかなか評判らしい。

実はこの作品、「参考までに」と松本さんの計らいでワークショップオーディションに呼んでもらっている。ワークショップのやり方には定評のある松本さんの現場を是非見たくて、役者に混じってオーディションに参加したのが1年前の冬だったかな?あの時顔をあわせたメンバーから数人が選ばれて、舞台を作り上げているのだし是非観たいと思っていた。

しかも今回もAMERIKA(松本修のカフカ翻案作品の第一弾で原作は同じく未完の「火夫」。これで松本さんは数々の演劇賞を受賞した)の時と同様に振り付けはイデビアンの井手茂太さん。井手さんは春学期プロ4でダンスを指導してもらっていたし、音楽の斉藤ネコさんは芸大出身で今年のアートパスでは1年生の「プレハブカフェ」のゲストとして音環に関わっていた。これは、私でなくても見たいらしく、うちの学生の間でも珍しくいろんな興味分野の人たちの間で広く話題に上っていた。

日舞の稽古があったので、終ってからあわてて初台に向かうが(実は、学生当日券狙いなのだ。半額なので^^;)、Z席(新国立の破格席。当日のみ売り出す)を含めSold Out! わー、すごいじゃん松本先生!とばかりに感心してもいられず、キャンセル待ちの列に並ぶことになった。前から6番目。これなら、くるかな。という感じ。待つことさえ苦にならなければ、この新国立の当日学生券は本当にお勧め。質の高い芝居を安く、いい席で見ることができるのだから。時間のある学生は是非使って欲しい。(しかも、お偉い方のためにとってある席が開演前になってキャンセル分として出されるから、却っていい席になることが多い。:松本さん談)

実際、開演直前になってかなり前の花道?横といういい席に案内されました。さて上演時間は3時間45分と聞いている。この劇場の椅子は堅いし、耐えられるなあ、、、と思っていると東欧っぽい?イメージ(ごめんなさい貧弱な形容で)の音楽が高まり、開幕。
ヨーゼフ・Kの役はtptの『時間ト部屋』でもいい味を見せていた田中哲史。ゆっくりと酒場に入ってきて一夜の宿をねだる。「部屋はない」と言われながらも食い下がり、椅子で寝かせてもらうがいつの間にか役人と村人たちに取り巻かれている。「ここには許可のない人間はいられないのだ。」役人の言葉にKは答える。「私は測量技師だ。城から呼ばれてきたのだ。」それは咄嗟にKがついた嘘なのだが、城に確かめた役人はKの言葉が真実であるという。そこから、Kの城との奇妙な関係が始まる。城はすぐ近くに見え、Kを受け入れそうにもみえるのに、いつまでたってもKはそこにたどり着けない。そもそも、どうしてKが城を目指すのかすら、我々にはわからないのだ。
難解と言われるカフカの作品の中でも、もっともわかりにくいのがこの「城」ではないかと言われているくらいだ。何せ途中で終っている。始まりはあっても、終わりはどこにあるかまったくわからない。この作品を「舞台化」する、というだけでも、相当いろいろな人が興味を持つだろうなあ。普段演劇を見ない人でも見てみたいと思うかもしれない。そのことを反映するかのように、客層はかなり年齢高めで、色々な人がいるように思えた。

Kと恋に落ちるフリーダの役は、松本さんお気に入り女優?の石村実伽さん。もう登場してすぐにKと裸で絡み合うシーンがある。松本さんの過去の作品を見ても、「オトナの芝居」と銘打っているだけあってこういったシーンは多くあり、その多くに私はリアルすぎる故の受け入れがたさを感じていたのだが、今回の石村さんの体当たりシーンは、不思議と舞台上の「離れたところにあるリアル」を感じられて違和感がなかった。石村さんという配役がよかったのか、松本さんの演出が洗練されたのか。とにかくいい具合に観客を「静かに興奮」させていたと思う。他にも、オーディションの時に「今回はちょっと『ヘンな人』を選ぼうと思っているので、選ばれなかった人は、自分は『まとも』なんだと安心して帰って下さい。」と言っていただけあり、個性の強いキャストが揃っていたように思う。(それでも、その人たちの個性を突出しないようにうまくちりばめて使うのが、松本修という演出家は本当に巧い。)

井手さんの振り付けはとにかく楽しい。
まあ、実際に踊ってみても楽しいのだが、見ていてもこんなに楽しいものかと思う。この踊りがなければ、松本さんのやりたいことは半分も形にならないんじゃないかと本当に思う。井手さんと松本さんの出会いは、演劇やダンスという芸術にとって非常にFruitfulな出会いであったんだと思う。(俺が二人を引き合わせたんだ。と某Iプロデューサーは言うが、果たして本当かねえ。(笑))
ネコさんの音楽は非常に「洒脱」で、あー松本さんが好みそうだなあ。という感じがした。CMソングなどで活躍されている方で、舞台の音創るのは初めてって言ってたけど、とてもあっていた気がする。ただ、ちょっと使いすぎなんだなあ。。。(これはネコさんのせいではなく松本さんの指示だろうケド)

途中で電光掲示板を使い、カフカの言葉が出てくる。
これは「城」の中の言葉ではなくて、カフカの残した言葉のなかから適宜選ばれて表示されているようだ。この使い方がうまいのだ。まあ、ことば自体が非常に難解で示唆に富むので、まずひきつけられてしまうのだけど、観客がそっちに注目している間に大道具の移動をすませてしまうのはとても機能的だなあと思う。
ちなみに私の印象に残ったのは、「真実の道とは一本しかない。それは空中を渡された綱の上にあるのではなく、地面のすぐ上にあって、人をつまづかせるために横たわっている。」みたいな意味の言葉でした。深いなっ。カフカの世界!

休憩時間に批評家の長谷部浩さんに会う。
ちょっと挨拶をしたら、「今日ポストパフォーマンストークがあるんだけど、来る?」だって。
そうそう、入口でチラシを配っていた。これは長谷部さんが、演出家と他の有識者も含め、その作品の批評や解説、考察、分析などを行う興味深いイベントで、とても参加したかったのだが今日は生憎あとに予定を入れてしまっていた。残念、誰か聴きに行った方いたら、トラバでもいいので是非コメントなどで様子を教えてください。
さらにその後松本さんも今日は来場していたみたいで、久しぶりに拝顔。「俺の芝居にしちゃ珍しく完売なんだよ。」と言葉とは裏腹にやはり嬉しそう。大がつくほどの盛況、本当におめでとうございます。

後半も、1時間半。
惜しむらくは、時間が長いので最後に集中がすこし切れてしまうことだろう。
ドアや、半紙をつかった演出は非常にスピーディで、私はとても好きだったのだが、それで盛り上がった場面の後に集中の糸が切れてしまった。あとは「どうやって終るのだろう」というところにだけ興味は向かっていく。「終らない」はずの物語を「終らせる」。どうやって松本さんはそれを可能にするのかな?これについては、まあこれから観る人もいるだろうし具体的には書かないでおきましょう。実際、具体的ではなかったのだ。あれ、終ったのかな。くらいのね。まるで夢から覚めるように我に帰ると舞台が終っている。その覚醒は「意図的」だということはおそらく間違いではない。

公演と同様に長めのレビューになってしまいましたが、
これから「どうしよう、観に行こうかな?」と迷っている人がいるなら是非行くことをお勧めします。前売りは売り切れだそうですので、当日券狙いになりますが、当日券のZ席は安いので、迷っている人はそれで行ってみましょう♪
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by uronna | 2005-01-26 22:16 | 劇評、書評、映画評

講評会終了!

1月25日(火)

今日は、長時間の講評会があった。夏に演出した芝居の演出ノートと映像を提出。英語版のレジュメにしてしまったため、質問の内容がほとんどレジュメに載っていたことだったのは残念。やっぱ日本語版も創るべきだったか。。。

しかしこれでようやく「今年も終わり」だ。まだ日舞の試験が残っているけれど、とにかく一年の集大成である「研究発表会」が終ったので肩の荷が下りた。力抜けすぎて、友人の飲みの誘いも気づかずに爆睡。
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by uronna | 2005-01-25 23:46 | 学校生活

今年も盛況!東南アジア青年の船事業報告会

1月23日

久々、SSEAYPブログを更新しました。

それからの海月たちへ
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by uronna | 2005-01-25 09:01 | その他のおしゃべり

「御ひいき勧進帳」

1月20日(木)
国立劇場にて新春歌舞伎を観劇。

だから、テスト期間中なんだってば。。。(誰も信じないな。)
ご招待いただいたので、今日しかなかったのです。明日語学だけど、既に戦意喪失中。

演目は「御ひいき勧進帳」。
人間国宝の中村雀右衛門と中村富十郎が一幕と三幕で主役をつとめる、新春に相応しい豪華な舞台だった。まだまだ、お正月気分が十分に楽しめる。

「御ひいき~」は義経記をもとに、3つの異なる場面をひとつの狂言にしてしまったもの。
一幕目の「女暫(おんなしばらく)」は、歌舞伎十八番の『暫』のヒーローを、女性に変えて演じる。このヒロイン「初花」の役が、「京屋」雀右衛門。衣装がまた豪奢です。(この大凧みたいな袖、なんか特別な名前があるってイヤホンガイドで言ってたけど忘れてしまいました。。。)

個人的に好きだったのは二幕目の「色手綱恋の関札」。
これは、ほとんどが踊りなんだけど芝雀さんの義経、魁春のお梅の「愛の舞」が見事見事。
梅玉、信二郎扮する弥五兵衛と鷲尾三郎が、二人の間を取り持とうとして踊る踊る、4人で交互に舞う動きが、とにかく見ていて楽しい。「愛っていいね~」とかバカなことを口走ってしまいそうな気楽さがなんともいえない。

三幕目は「加賀の国安宅の関の場」。でも、「勧進帳」の安宅の関の場面とはまたずいぶん雰囲気が違う。この作品、「芋洗い勧進帳」という別名で呼ばれているが、この芋が何かというと、人間の生首。義経一行を無事に通らせた弁慶が、適役の三下たちの首を引っこ抜いて、天水桶の中に投げ込んで、その上で芋洗いのように桶の中の首をかき回すという、なんとも「荒々しい」ハナシ。
しかし、これが歌舞伎になるとなんでこんなに面白いんだろう。
首がポンポンと桶の中から飛び出してくるシーンに、こんなにカタルシスを覚えるとは思わなかった。歌舞伎の世界だから可能なことで、やっぱりこの「形」ありきの舞台芸術のすごさを思わざるを得ない。

最後の「芋洗い」はともかく、前二幕はどちらも「女傑」が主になっていて、(「色手綱」のお梅も最後は馬に乗っての大立ち回り、かっこよかったです。)なんだか現代の風潮を如実に舞台上にあらわしていたような感じさえ受けた。
「舞台は、時代を映す鏡」
それは歌舞伎役者が舞台上で「間違いない」とか「残念!」とかいってるとかいうことではなく(それももちろんやりかたとしてアリだが)、後にその舞台を再演する時に、その時代の人々の思想を感じることができるのが、本当の意味でこういった伝統芸能の存在する意義ではないかと思う。
…とか適当なことを書き散らして、そろそろドイツ語の勉強に戻ります。。。
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by uronna | 2005-01-20 19:52 | 劇評、書評、映画評

アートパス打ち上げ

1月18日(火)
12月にアートパスで上演した「4時48分サイコシス」と、コンテンポラリーダンスの打ち上げを、プロジェクト時間中に行う。(一般的な言葉で言えば、「ゼミの時間中に昼間っから酒をのんだ。」)

ダンサーの永谷さん、演出家の阿部さんも一堂に会して、上映ビデオをダビングしながらのなかなか楽しいひとときでした。プロデューサーの市村さんは「トヨタ・コレオグラフィ・アワード」にダンス作品を出すつもりらしいけど、参ったなあ。。。自分の身体のキレのなさ、ビデオを見ると改めて気付かされてがっかりする。鍛錬が足りんなー。

ドラマリーディングとして行ったサラケインも、阿部さんに2、3点の指摘とフィードバックを頂き、概ね成功裡に幕を閉じた、って感じかな。こっちはアサヒ・アートフェスティバルに出品するとかまた市村さんが言い出しそうで怖い。

この学校では、第一線で活躍している人と、こんな形で作品づくりをさせてもらえることが多い。普通に外で芝居を創っていたりすると、あまり他の演出家や役者とコラボレーションする機会はない。演出家同士っていうのはなかなか互いを認めあわない?し、役者であってもメソッドが違ったりして苦労することが多いのだ。こういう風に「教わる」立場に徹することなんかなかなかできないだろう。阿部さんは、私がずっと会いたかった「女性演出家」で、そのキュートな性格も作品に向かう姿勢も、見習いたいと思うことが多い。活動の場に大学を選んだことを後悔したこともあったけど、機材や場所を自由に使えることなども含め、視野が広がったり、自分の引き出し多くなるというメリットもあるのだから、今は来て良かったと思う。

しかし、今週はテスト週間で、来週はいよいよ「講評会」。
一年間に作ってきた作品を発表しなきゃいけないんだけど、何の準備もできてない。(結構ツワモノ。一般的な言葉で言うと、「来週昇進をかけたプレゼンがあるんだけど、まだレジュメどころか構想すらできていない」みたいな。)
金曜日は語学の試験もあるし、あー、やっぱり学校を選んで失敗かも・・・!(笑
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by uronna | 2005-01-18 00:25 | 学校生活

小室等特別講座「言葉による憑依、音による憑依」

1月13日(木)
 音楽文芸の特別講座で、小室等さんが来た。
a0015614_0591590.jpg

 詳しい内容は、楽天日記の方にアップされています。

 私知らなかったのですが、エキサイトブログってアフェリエイト使用禁止なんですか?
私が使い始めたときは、周囲の人もたくさん使っていたので、全然問題ないと思っていました。いきなり記事が読めなくなっていたのでちょっと驚きました。読めなかった人、ごめんなさい。よかったら楽天の方をチェックしてくださいね。
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by uronna | 2005-01-13 00:55 | 学校生活

マルセル・デュシャンと20世紀美術展

1月10日(月)
 マルセル・デュシャン展がついに関東に来たので観に行ってきた。
みなとみらいにある横浜美術館での開催である。ホールの2階に上がると、いきなりナム・ジュン・パイクの映像作品が目に入ってきた。ちょっと見ていたが、結構長かったので途中で切り上げて展示室に足を向けた。彼の作品は、全部見通すことに意味のある類の作品ではないと思っている。
美術展の詳細はこちら

 今回は、デュシャンの作品だけでなく、デュシャンによって影響を受けたその後のアーティストたちの作品を一緒に展示することで、「デュシャン以降」の芸術とは何かという問いを掘り下げようという趣旨だ。なるほど、構内では「チェックシート」なるものが配られ、デュシャンのそれぞれの代表作に「啓発され」生まれた様々な作品と、デュシャンの作品を「エロス度」「不思議度」などの様々な尺度で比較し、批評しようという試みまで行われていた。試み自体は面白いと思ったのだが、用意されたチェック項目がイマイチで残念ながらあまり企画として奏効しないような気がした。

 私がどうしても見たかったのは、「大ガラス」と「遺作」の二作品である。
こればかりは、どんなカタログや書籍を見ても実際に受ける印象とはかけ離れているに違いないと思えた。どちらにしても、本物を見たければフィラデルフィアに行くしかないのだが、限りなく近く再現してくれるのだろう、という期待はあった。
フィラデルフィア美術館の展示の様子
それゆえに、流れの1,2項目だった「画家としてのデュシャン」「レディメイド」のあたりはかなり足早になってしまったのだが。(ただし、デュシャン作品を模倣(オマージュ、もしくは揶揄)して作った作品群は、このあたりのが一番面白かった。)
「大ガラス」つまり、「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」だが、これはガラスの質感と色合いが、想像していたものと違ってかなり驚いた。それに、けっこう小さいな、と思った。これが、フィラデルフィアではデュシャンの指示で中庭の噴水が見える位置に飾られているのだ。やはり、実際に見たいという気持ちは募る。
 そして、遺作「与えられたとせよ 1.流れる水 2.照明用ガス」だが、これは立体映像による再現だった。非常によくできてはいると思うが、突然、覗いている人の映像も写されたりして、全く別の作品になってしまっている。暗い部屋に扉が映し出されているのだが、この作品に対する予備知識が無い人は、本物の作品以上に「のぞき穴」の存在に気づかずに去ってしまうのではないか?まあ、前の人がのぞいているのを見て、ふーん、という感じでみんな覗いていくのかもしれないが。それでも、やっぱり覗いて見る「遺作」の内部はどんな書籍で見たものよりも新鮮で衝撃的だった。

 そのほかジャスパー・ジョーンズやジョン・ケージのデュシャンに対するオマージュ作品など、見所は多かった。横浜美術館は常設展もなかなか面白いので、是非足を向けてみてはどうだろう。3月21日まで開催している。

会場にちりばめられていたデュシャンのコメント、出展はこの本
マルセル・デュシャン全著作
デュシャン全作品カタログ全2巻
デュシャン全作品カタログ全2巻
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by uronna | 2005-01-12 14:51 | 劇評、書評、映画評

やっと観られた 「走れメルス」

1月9日(日)
立ち見で行ってきました。
年末に観劇を予定していたんだけど、これも突然の食中毒騒動に妨げられていた。

もともと立ち見狙いだったのでコクーンには11時半頃着いたのだけど、既に二階のエレベーター近くまで列ができている。これはかなり激しいな。
それでも待つこと1時間半、狙い通り立ち見の後ろの方をゲットできた。

人気の理由は、キャストにもあるだろう。
(人にもよるだろうケド)今回は特にゴージャスだ。深津絵里、小西真奈美に加え、峯村リエ、濱田マリ、池谷のぶえといった女優陣の名前を見ただけでも「見たい」という気持ちになる。
さらに、古田新太、河原雅彦、浅野和之、そしてカムカムの松村さんはでてるし、なんか「座長祭り」な感じだなあ。(そんなイベントあったなあ、そういえば)

あ、ストーリーについては、他ブログを参照してくださいね。(笑
とにかく、印象としては「すげえな。野田の初期の作品って『アングラ』だったんだ。」言葉遊びも、洗練されてないけどパワーがある。無理やりなところに面白さがある。「分別の無い」若者の、一見破天荒を装った確信犯的な撹乱操作に、当時の観客も演劇界もさぞ揺すぶられたことだろう。
今見てしまうと、どうしても最近の作品と比べてしまいがちだが、この作品は76年に発表されて、多少の書き換えはあるにしても約30年たった今、再演されたものなのだ、。そのまま野田秀樹という個人の思想史の初期を見せられているようでそれだけでも非常に興味深い。新進気鋭の若手作家の作品、という位置づけか、いまや日本の演劇界のメインストリームと成り上がった野田の作品として観るかという違いもある。
私たちのように30年前の作品や、遊民社時代の作品を物理的に観られていない世代の人間が気をつけなければいけないのは、「いま、目の前で起きていることが本当に面白いのか。」を考え、周りの笑いに引きずられないようにすることだ。「わからなくても、面白い」じゃだめだし、「なんだかわからないからつまらない」でもだめだ。何で「今も」野田の作品が「自分にとって」面白いのかという答えが自分なりにでていないと、決してこの鬼才以上のものを創ることなんかできない。

最近、再演の作品が多いなあと思っていた。NODA・MAPだけではない。色々な劇団で昔の作品を掘り起こして上演することが増えている。なぜだろうと思っていたのだが、野田秀樹のコメントを読んでいたら、ちょっと腑に落ちる部分があったので引用する。

「何ゆえ、いまさら私がこの古い『若い』芝居をやろうと思ったのか。どうも近頃の新しい『若い』芝居を面白いと思えないからだ。」「世界の中心で、わかりきった愛なんか叫んでる場合じゃない。『助けてくださあい』じゃない。誰も助けねえよ。」「この走れメルスは古い『若い』表現者からの、今の『若い』表現者への挑発であり挑戦である。」(公演パンフより)

今更言うこともないけど野田さんって、頭いいしズルイよね。
前にラッパ屋の芝居を見たときにも思ったんだが、やっぱりいま40代くらいのヒトが作・演出している芝居って、「強い」んだ。新劇とかアングラとか、ジャンルを越えて日本の現代演劇を創ってきたっていう自信が、ゆるがない作風に滲み出ている。
挑戦しつづけてきたものは、あくまで挑戦者であり続けたいのだ。当然だ、挑戦される側に回るのには本人にはメリットがあまり無いからである。そういえば最近テレビを見ていたら、K-1の魔裟斗が年末の特番で格下の選手と戦ったことを「勝って当然、負けたら評価が下がるだけの挑戦をよく受けた。」と誉められていたけれど、君子・野田はファイターではないから、「稚拙な企み」と野田が呼ぶところのそんな挑戦に受けて立つほどの「分別はない」のそうだ。(←これは暗に俺には分別がある、ということだろう。本当のところ。)

「そんなもの待ってはいられない。悪いけど、先へ行く。」だってさ。

永遠の少年を追いかけるのはなかなか骨の居る作業ですね。


会場で売っていた本たち↓
解散後全劇作
20世紀最後の戯曲集
二十一世紀最初の戯曲集
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by uronna | 2005-01-09 21:29 | 劇評、書評、映画評

復活。


by kawasaki Alice
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