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昏睡

にしすがも創造舎にて
倉迫康史総合演出、永山智行作
友人の女優が所属する劇団、宮崎のこふく劇場がまた東京国際芸術祭のために上京している。今回も基本は主催の永山さんが書いた戯曲を倉迫さんが演出するというスタイルだが、今度の作品はなんと二人芝居のオムニバス七幕ものということで、他にも多くの劇団の役者が出演し演出家も複数いる。自由下僕、泊篤志、森本孝文がその面々である。なんというか、凄い企画だなあ。要は各々の劇団主宰が自分とこの看板持ち寄って一本の芝居作っちゃうよ、みたいなことだよね。普段からまったく劇風の異なる芝居をやっている劇団もあるし、何より演出家同士のコンテクストのすりあわせは上手くいくのだろうか。いろいろ興味は尽きない。

にしすがも創造舎は私たちも夏のプロジェクトで使わせてもらったあの、旧千早中学校だ。(7月13日の記事参照)今回ステージがたてられた体育館は、夏の頃はまだボロっとしていたが、今はかなり手が入れられて綺麗になっている。
舞台には既にフードつきの長衣を被った役者たちがめいめいに話をしたり演技している。どうやら倉迫さんは今回の話を避難民の物語に仕立てたようだ。第一話戦場はなかなか見物だった。(手のない姫をやったあべゆうが、夏利賀に参加した時に出会った宮崎の女優だ。)

ひとつひとつの話も演出もそれなりに面白い、なんとなく、全体的にエロティックで緩いところが「昏睡」なんだろうなあ。でも演出ノートを読んでいると明確なテーマ設定と「こういうことだ!」みたいな説明があって、それとはちょっと違う仕上がりになっている気がしてしまった。倉迫さんって、ひょっとすると「白黒はっきり」つけたいタイプの頭脳派演出家なのかもしれない。





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by uronna | 2005-02-28 23:54 | 劇評、書評、映画評

性格俳優同士のナガゼリの応酬が見もの 「デモクラシー」

2月24日(木)
青山劇場にて、加賀丈史と市村正親の「デモクラシー」を見る。

加賀さんは実は少女なりし頃かなりファンで(しぶい趣味の少女もいたもんだ)、今回はあの市村さんとの共演ということで、珍しく自分でかなり前からチケットを手配していた。

このふたりのタッグというと、ほとんどの人はミュージカルを期待するようだが、私は今回こてこてのストレートプレイ、と聞いてチケットを買うことを決めた。ていうのは、やっぱりジャン・バルジャンとエンジニアの共演じゃないものが見たいわけですよ。どんな風に、長台詞を聞かせてくれるかにとても興味があったのです、あれ、私も変わったなあ…(苦笑)

このハナシ、実話を基にした戯曲。作者マイケル・フレインはイギリスの人。演出のボール・ミラーもイギリスの人。物語のもとになっているのは、60年代から70年代にかけて、ドイツの政治界のみならず、東西冷戦まっただなかの世界情勢に大きな波紋を投げかけた「ギョーム事件」。これは西ドイツ首相のブラントの秘書官であるギュンター・ギョームが、実は東ドイツの諜報機関が送り込んだスパイだった、という事件である。ブラントは腹心としてギョームを起用していたので、NATOの重要機密事項がすべて東ドイツ、すなわちソ連側に筒抜けであったという事実はなによりもアメリカに打撃を与えた。

で、舞台は終始政治家たちのやりとりでハナシが進む。
首相執務室の面々、党の面々の中には密かにブラントを落としいれようとする動きもある。そして東ドイツからの間諜。さまざまな人間の思惑が、個人の思惑を超えて「国家の思惑」として動き出す時、男たちの関係は友情やライバル意識を自由に育むことのできる環境には置かれない。それぞれの地位、使命、それに彼らが抱いている崇高な理想。個人的な信頼と裏切り、という構図ではけっして語れない、スケールの大きな人間模様がこの戯曲には描かれている。

舞台はシンプルなつくり。
舞台奥に会議机。中央との仕切りのように、たまに東西に分断された当時のドイツの地図が降りてくる。これがパーティション1。そして中央の舞台の前面を左右にスライドする半透明の仕切り、これがパーティション2。下手手前に首相の机。間諜としてギョームに指示を与えるクレッチマン(今井朋彦)はほとんど中央のつくり舞台に乗らず、上手の地板で舞台の上で起きていることを「観察」している。パーティションに関しては、仕切るタイミングが微妙に効果的でなかったりと、1も2もいらないんじゃないの?と思ってしまうことが多かった。

加賀さん市村さん以外の役者さんも、すごい人がそろっていたのだが、結局はこの二人だけが目立ってしまっているのが、演出上の、あるいはキャスティングの失敗なのではないだろうか。これがグラントとギョームの心の葛藤を描いただけの人間ドラマだったら、これは二人芝居でことたりるのである。この戯曲を面白く演出するには、周囲の8人の人間関係と対立関係、さらには性格までを明確に提示して、それぞれの行動や台詞に観客が笑ったり怒ったりできるような工夫が必要なのだと思う。チャーミングな首相、それはよし。愛嬌とギャグセンスのあるスパイも魅力的だった。だが面白い!といえるところにまで行っていなかったのは、たぶんそういうことなんじゃないかと思う。難しい難しいっていうけど、戯曲としては難しくないんだと思う。これ。政治用語が飛び交っているから「なじみがない」んであって、理解に難しい作品というわけではまったくない。10人も、背広をきた男たちがでてくるんだから、それぞれのキャラクターをしっかり粒立たせて、観る方の意識をぐっと捕まえて欲しかった。(平日の昼間だからほんと観客は女性ばっかりだったんだしね。私の近くの席のおばさまたちは、ほとんど船をこいでいました。)

平日マチネ特典?か、終った後に加賀&市村トークショウが開催される。
観客から質問を前もってアンケートに書いて提出してもらっておいて、そのなかからアナウンサーの選んだ質問を二人に答えてもらう、という趣向。20分の休憩を挟んだにも関わらず、ほとんどの人が帰らずに聴いていました。それほど印象に残るトピックはなかったけれど、市村さんが加賀さんのファンだということはよくわかりました。自分が好きな役者さんと共演するって、嬉しいよね。やっぱり今日はファン感謝デーだったのか(謎)、と思いながら劇場を後に次の用事に急いだのであった。
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by uronna | 2005-02-25 03:56 | 劇評、書評、映画評

70年代を打ち砕く。仲田恭子演出「僕らが非情の大河を下る時」

2月20日(日)
ザ・スズナリにて。

毎年、富山県の利賀村でやっている「利賀演出家コンクール」。
昨年は仲田恭子さんという若手の女性演出家が最優秀賞をとったときいて、気になっていた。
課題戯曲はイヨネスコの「授業」だったというが、噂を聞くにつけ観てみたいという気持ちが高まっていた。たぶんこんな感じだろう、というのは想像できても、それをいい形で裏切ってもらえたらこんなに痛快なことはない。(幸い、再演があるみたいです。静岡と横浜で)

まあ、その仲田さんが、今回ク・ナウカで演出する、と聞けばいてもたってもいられない。
ほぼソルドアウトのチケットを辛くもGetして、スズナリに乗り込みました。

この戯曲は、知っている人は勿論懐かしいかもしれない清水邦夫の岸田戯曲賞受賞作品。私は、蜷川さんの演出で蟹江敬三と石橋蓮司がやった、っていう情報だけは知っているが、もちろん実際にみたことはない。
クナウカ作品のほとんどの場合挟まっている「演出ノート」あるいは「対談」といった文字情報から得た情報によると、この作品は「日本の戯曲のなかで最も美しい台詞を持つもののひとつ」だと宮城さんは言っている。この「普遍性のある」美しさを持つ戯曲が、現在上演される場合周囲にウェットなものがまとわりつくことで、普遍性を失う気がしていた、と。それを「利賀演出家コンクール」で徹底的にドライな言葉の扱い方をしていた仲田さんの演出なら、成立するじゃないか、ということで今回こんな企画になったらしい。

白いステージ、つなぎの服を着た男たち。
上手に大きな男性用便器、中央にガラス張りの棺とずれた蓋、舞台奥に二つ梯子がかけられ、役者たちが出入りできる穴につながっている。舞台上4箇所に赤い物質が仕込まれているのが観客からも丸見えで、これはいつ、どんな感じで落ちてくるのか、というのがかなり気になる。今回の設定は少年院の中の「劇中劇」ってことで、下手側の観客の頭上あたりに設えられたモニターが異質感たっぷりに役者たちとセットを4つの角度で映し出している。

このモニター、4分割になっていて、そのうち3つは現在舞台上で起きていることを遷しているが、ひとつだけ舞台上でリアルタイムに起きていることとは違う画像を映している。(完全に録画なのか、それとも前のシーンをずらして投影しているのか、ちょっとわからなかったのだけど)仲田さんは「ずらし」のプロ?らしく、今回の演出ノートを見ても、主演男優を中心にすえて美曲の世界をずらす、などと凄まじいことを言っていたので、これも時間軸のちょっとしたずれを効果的に見せようとしている一環なのかな、と思った。

彼らは少年囚で、父と、兄と、弟の役割を演じていて、ときにその役割が入れ替わったりして、狂気というものを異質なものとはまったく捉えていなくて、殴りあうはずのシーンはシャドウのあとのバドミントンというなんとも現代っぽい決闘シーンになっていて、とにかく目が離せない。ことばを解体してしまって、自分好みの味付けにしてしまった仲田演出、これが成立してしまうのはどうしてなのか。今、同時代性を感じて、この芝居を受け入れる人はいないだろう。でも、面白いと思ってしまう。たとえばあの「踊る」ところ。あれだけでこっちはゾクゾクしてしまう。
最後の台詞を語りながら、兄が観客の手を引いて舞台袖に消えていくシーンも、けっこう鳥肌モノでした。

この芝居の裏方に入ってる方のブログ発見したので紹介しておきます。なんと『授業』の花嫁役の方ですね(^^)
御贔屓ウムラウト
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by uronna | 2005-02-21 00:06 | 劇評、書評、映画評

「ヲg/三人姉妹」 パパ・タラフマラ

2月13日(日)
コーカサスを観た後、三軒茶屋から渋谷まで歩く。途中で美味しいカレーやさんを見つけて食す。とても得をした気分。でも、池尻から渋谷は坂がちなので結構疲れました。。。

で、夜は中野のSAIスタジオで、パパ・タラフマラの公演を観る。久々に一日二本立てコース。と思ったらこの公演自体が既に二本立てだった。

音に聞くパパタラは、実は初見。
どんなパフォーマンスを見せてくれるのか、3年間待った(?)だけに期待は高まる。
(しかし今回はスタジオ公演ということで、普段とはだいぶ違うのかもしれないけど。)
しかしこのスタジオ、初めてくる人はゼッタイ中野駅から7分じゃ着かないぞ。パパタラ役者は身体能力が高いってことを誇示しているのか?チラシの「徒歩七分」は。

「ヲg」は、「ゴドーを待ちながら」なんだって。
そうかなあ。言われてみればそうか、と思う箇所もなくはなかったけれど、単なるとっかかりにしか思えなかった。始まってから2分の間はすごく良かったんだけどなあ。暗い中に覆面をした人たちが出てきて、息づかいだけが聴こえるの。下手に設えられた小さなモニターに映った植物が静かに揺れて。そのあとは、終るまで妙にがさがさしてつまらなかった。

「三人姉妹」は「凄いな。」
もちろんチェーホフのあれをモチーフにしているんだけど、いい感じに壊れている。
構造も壊れているし、人間も壊れている。その破綻具合が、崩壊寸前のところで寸止め状態。こっちに出ていた役者たちは、(きっと看板級なのね)なかなかキレのある身体で、表情が素晴らしい。ダサい衣装から黒い衣装に変わるとき、まるで自分の皮膚まで脱いだかのように変貌しちゃう。ほんとに綺麗になっちゃうのね。そして足の上げ方ひとつとっても素人くささはなかった。この役者さんたちは面白いや。なるほど、これがパパタラの魅力?とちょっとわかる気がした。

スタジオという空間も、功を奏していた気がする。

音は、悪くないんだけどたまに役者を食うのが気になった。

以上。
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by uronna | 2005-02-18 01:32 | 劇評、書評、映画評

「コーカサスの白墨の輪」

2月13日(日)

世田谷パブリックシアターにてマチネ。
松たか子主演、串田和美演出。
Keywords: グルジアワイン・シャッフル・観客参加

「子供の手を二人の母親が引っ張って、子供の痛みを考えて先に手を離した方が本当の母として認められる」
この話、誰もが知っている話だとは思うけれど原典を知っている人ってそう多くはないのではないか。私も恥ずかしながら、タイトルを見ただけでブレヒトのこの芝居の内容をこの話につなげることができていなかった一人だ。始まってすぐに、ああ、そうだったのかと思った。

つくりは円形。パブリックシアターの舞台も今日は、観客席となっている。開演前も役者さんたちが舞台となっている真ん中のスペースでパンフレットを売ったりして、「観客参加」の匂いをぷんぷんさせている。時刻になると、役者さんが中央に集まり、アカペラで声を合わせて歌い出して、開演。

特筆すべきは、話の進行役になっている朝比奈さん。役者であると同時に音楽監督。そのプレセンスは非常に味があって、たまにさりげなく指揮をしたりしているんだけど、その動きも完全に役者のものである。話を進める歌声もすばらしく、まさにこの芝居のキーマン。

松たか子、鞠谷友子の歌や演技は今さらいうまでもなく良い。そしてこの芝居に限っては、串田さんも有りなんじゃないの、と思った。演技をやめて演出に専念しろ、とか色々かかれたり言われたりしている串田さんだけど、演技は本当に好きなんだろうなあ。自分が出るために演出しているんだと思うから、今回のように役を選び見せ方を選べば、成立するんじゃないか。まあ、普通は「主役」でも何でもない役を主役に仕立てあげ、目立ってしまっているのは「出たがり」のそしりを免れないかもしれないけれど、その危うさが面白ければ観客としては満足だ。

一番この演出で成功しているなあ、と思ったのは、外国人役者たちの起用である。
役者が売りにきたので思わず購入してしまったパンフでチェックすると、男女合わせて8人の外国人俳優が出演している。彼等にどのように話させるのか、という興味があったのだが、見事な「カタコト日本語」であった。これには頭を殴られたような衝撃があった。今、日本で、ブレヒトを上演する、ということに串田さんがしっかりとしたビジョンをもっているということを感じた。ブレヒトの言葉を現代に伝えるのには、滑らかな発話ではだめだし、歌にのせたところで「異化効果」は起きない気がしていた。それならばこのゴツゴツとした、たまに意味を取り違えそうになるくらいの台詞によって感じさせられる違和感こそ、それにとってかわるものなのではないか?

力の抜けた、それこそ酔っぱらったようないい心地のうちに、芝居は幕を閉じた。(串田さんにいたってはほんとに飲んでたんじゃないか?(笑))
興奮につつまれてワーッと観る芝居の良さとは、また違うものがある。こんなに力が抜けてるのに、色々考えさせてもらえる芝居だったと思う。

それにしても休憩時間に舞台上で販売していたグルジアのワイン、美味しかったなあ・・・。銘柄をチェックしてこなかったのは不覚である。どなたか、チェックした方がいたら教えて下さい。
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by uronna | 2005-02-14 02:54 | 劇評、書評、映画評

SSEAYPブログ更新しました。

2月11日
IYEO主催の「いろんな仕事セミナー」に顔を出したので、SSEAYPブログを更新しました。今年も募集が始まりましたよ。要項も近いうちにのせます。世界を舞台に活躍したい人は必見!

それからの海月たちへ
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by uronna | 2005-02-13 01:36 | その他のおしゃべり

「Loves me, or loves me not」 砂連尾理+寺田みさこ

2月11日(金)
 シアタートラムにて。
ポストトークに「地点」の三浦基さんが来るというので、実はそれもかなり楽しみにしていた。

 会場に入ると、まず思ったのが「お、やっぱりバレンタイン企画か?」
舞台上には上手よりに十字に赤い砂が敷かれ、下手にその赤い砂が砂場で子供が作るお山大に盛られている。舞台奥に片足ずつを縛られて二人用になった赤い椅子。それだけでバレンタイン?と思われるかもしれないが、町中のオーナメントを日々目にしていると、作品のタイトルもあいまってそういう風に見えてくるものだって。いやー人間の空想力って不思議…。

 結構前の方の席をとったのは、二人の顔がよく観たいから。コンテンポラリーのダンサーの表情については、私はたまに動き以上に観る価値があるんじゃないかと思っているが、ポストトークの三浦さんの話を聞いていてますます「そうなんだよな~!」と腑に落ちた。

 みさこさんは、遠めにも「きれいな人だ」とわかるけれど、近くで観るとますます「ロシア系」。はっきりした顔立ちに、白い肌。しなやかな肢体。まず、「普通の人じゃない」。
一方で砂連尾さんは、さっぱりした顔立ちで、スーツが良く似合う、加えて開襟シャツも良く似合ってしまう、「普通の人」。動きも「これぞダンサーの動き!」っていうよりは、日常生活をしているとふと妙な動きをしてしまう、といった感じ。そのふたりがデュオで踊る。それはデュオであって、デュオでない。ふしぎな不思議なソロダンスの共演なのだ。

 黒いドレスのみさこさん、砂連尾さんの影でそれを脱ぐ。下着も黒。音楽はベートーベンの「月光」第一楽章。もちろんずっと「月光」が流れているわけではない。しかし、他にかかっていた曲を忘れてしまうくらい「月光」は強い。こんなクラシックを持ってくるとは、珍しいことではないか?とちょっと驚く。

 上から「お人形さん」が落ちてきて、みさこさんはそれを足の指に挟んだりして戯れる。砂連尾さんはそれを踊りつつ「静かに見守る」。人形のほかに、トラックのラジコン?が登場したりと、どうやら昔の記憶をたどっているのかな、この人たちは、と思う。

 第二部は、お掃除。そこらじゅうに散らばってしまった赤い砂を、掃除機で吸い込もうとする砂連尾さん。ほんとうにお掃除している「主夫」の人みたい。一方クイックルワイパーのようなものをもって現れたみさこさんは、どうみても掃除しているようには見えない。だんだんワイパーすらも掃除用具に見えなくなってくる。ふたりは実際、掃除してなんかいない。だって赤い砂は、彼らがその手に持った用具を駆使するごとにますます散らばっていくのだ。

 床を這い、身体をくねらせる二人。まったく別種の動きをしていながら、ふたりで全く同じタイミングで踊る瞬間はぞっとするような興奮がおきる。別に音楽でカウントをとっているわけではないのだ。この計算しつくされた身体のうごき、これは確かに創作に時間がかかるわ。(昨年の5月からずっと少しずつアレンジを加えて作り上げて行ったそうだ。)
赤い砂の上で背中を這わせていた砂連尾さんが起き上がると、白いシャツの広い背中に、赤いハート型の汗が浮かび上がった。やっぱりバレンタイン企画だった(笑。

 おそらく誰もが「はっ」として目を奪われる、みさこさんが砂連尾さんの腕に抱かれて正面を凝視しながらその身体の影に沈んでいくシーン。(そこを三浦さんは「よかったね。」と言っていたが)私もここで安心したのだった。収まるとこに収まるものを見ると、人間は必然的にほっとするのだなあ。
 つまり私はふたりの関係性をずっと追っていたのだ。まったく関係ないように見えるのに、たまにシンクロするふたりのダンサー。やはりソロじゃないんだ。このふたりだから、この作品は面白いんだ。最初から最後まで、二人の関係性を観客は考え続ける。ふたりの表情から目が離せなくなるのもそのためだ。「彼らは関係あるのか?」「いや、ないんじゃないか?」「相手のことを考えているのか?」「考えていないだろ。」
 二人がばらばらに踊っている間、私たちはダンサーたちと三角関係にある。そのひとつの辺が伸びたり縮んだりしながら、ついにくっついてしまう瞬間にのみ、私たちは彼らを「デュオ」として捉え対等の関係で対峙する。その繰り返しなのだ。緊張と弛緩。こんな言葉にしてしまうとなんだか急に月並みでつまらないが、だから「じゃれみさ」の作品は気持ちいいのだ。ゆるやかに、いろいろばらばらにぼやけて見えていた断片が、急に焦点をあわせて視界に飛び込んでくる。「おっ」と思うと次の瞬間にまたばらばらになる。その緩急の付け具合も絶妙。

 「じゃれみさ」はやっぱ「じゃれみさ」じゃなきゃだめなんだ。この「日常」と「非日常」を体現する男と女のデュオだからこそ、観客の想像力は果てしなく広がる。(この観客の「想像力」こそが舞台芸術を面白くするKeyであることは言うまでもない。)「ことば」というものが「概念」の集積であれば、それは断片のように存在するだけで十分である。断片を繋ぐのは観客の想像力に他ならない。観客に想像させ、創造する。コンテンポラリーダンス、演劇、音楽、もはやジャンルを問う必要などないだろう。この感覚はそれこそ「地点」の「三人姉妹」を観た時と非常に近い。ポストトークでは三浦さんのしゃべりも始めて聞いたけれど、言葉は決して多くないのに鋭い指摘が多く、想像していた通り「切れ者」の印象だった。

 終演後、ダンス批評家の桜井さんと、学科の子に会い、恒例?の劇場打ち上げにちゃっかり参加。三浦さんと話す機会もあり、有意義でした。

 
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by uronna | 2005-02-12 02:22 | 劇評、書評、映画評

ミュージックシアター「浄土」

2月6日(日)

 横浜BankArt1929にて。
 
 まずこの作品について。三島由紀夫の短編小説「志賀寺上人の恋」の舞台化である。
(三島には数多くの戯曲があるが、これは戯曲ではない。)

 もはや見る夢は浄土のことばかり、という高徳の僧・志賀寺上人が、美貌の京極の御息所に恋をしてしまう。上人にとってその愛は獲得寸前だった「来世」の返上である。これほどの高徳の僧を迷わせたからには、自分にももはや浄土は望み得ないことであろうと、御息所は愛されることの「地獄」を見る。

 このハナシ、実は夏に卒塔婆をやったとき、演出家の宮城さんに「卒塔婆をやるなら読むといいよ。」と勧められた作品だ。一読してまず「なんてヤツ」って思った。それまで、三島の作品を好きにはなれなかったけれど、この男の定義する「愛」とその実現不可能な希求は、深過ぎてなるほど、あんなに短い作品でもものすごいインパクトをもって私を魅了した。(個人的には同じ短編集 「岬にての物語」の中では最後の「月澹荘奇譚」が好きですけどね。何とか舞台化でききないかな~なんて考えてたりして。)

 ま、前置きはともかくとして、そんなこともあったので、てっきりこの「志賀寺~」の舞台化は宮城さんが主導?というか発案でやっているのだろうと思っていた。だが、実際に舞台を見るとどうも違っているようだった。プロデュースは、パーカッショニストの加藤訓子さん。小柄な身体で迫力のある演奏。どうやら、主導権は彼女と、作曲家のジェームス・ウッド氏にあるらしい。あとから宮城さんに聞いたところによると、「小鳥のさえずりと同じように、『台詞』もひとつの音楽として捉えられている。」

 なるほど、舞台の上では役者(ク・ナウカの江口麻琴さん)が直接言葉を発することはあまりなく、ほとんどが加藤さんの朗読の録音で話が進行していく。音や、独唱がそれに被ってよく聞こえなくなることもある。ことばは「ことば」として扱われておらず、あくまで、音の要素として空間を彩るものだった。彼女の持つExpression同様に声がとても「かわいらしい」ので、初めの頃なんとなく違和感を覚えたが、それが主となり打楽器と共に世界を創り始めると、暫くするうちに慣れてしまった。

 上人の恋する御息所の役(といっていいのかどうか)は、英国のソプラノ歌手サラ・レオナルド。舞台奥の一番高いところに立ち、時たまことばとしての意味は持たないであろうと思われる高音の声を発する。私は、この人の扱いが一番「もったいない」と感じた。俳優はその個性的な身体でもって圧倒的な存在感を示していたし、パーカッショニストはこの「物語」にまったく登場しない人物にも関わらず、押しも押されもせぬ「主役」ぶりだったし、その演奏とビビッドにシンクロしながら独自の主張をする「音」も激しい個性をもっていた。その中で、御息所、或いは「美」を体現するものだけが、妙に遠く、かすんでしまっていたように思う。

 いずれにしても、非常に印象的で心地のいい、そして凄まじい舞台だった。
「音楽と、演劇と、文学を、順列がつけられないくらい好きな人に送る」というキャッチコピーには胸がときめくが、やはり音楽>演劇>文学の順に観客の満足度には差があったのではないだろうか。私は演劇=文学≧音楽(敢えて言うなれば)なので、今度はこの逆バージョン?宮城さんが主導するものも見てみたいなあ、なんて勝手に思いながら、BankArtを後にした。1Drinkつきの美しいArt作品をみた。という気分であった。
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※美しいのひとことにつきる舞台美術。
 七宝でできた御簾ごしに御息所がこちらを覗き込むシーンがお気に入り。
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by uronna | 2005-02-07 00:20 | 劇評、書評、映画評

ベケット・ライブVoil6 「クァクァ」

2月4日(金)
 「劇」小劇場にて観劇。

 こちらは、いつもお世話になっている演劇集団円の演出家阿部初美さんの演出による、ベケット後期の作品の舞台化。主演女優の鈴木理江子さん本人のプロデュースによる「スリーポイント」では、99年以来ずっと、ベケットの作品を扱ってきたそうだ。パリのルコックで学び、転形劇場で活躍してきたりえこさんの舞台、大田省吾さん演出の「水の駅」の映像は見せていただいたことがあるけれど、こうしてライブで観るのは初めて。とてもわくわくしていた。

 下北に着いたのは結構早かったのだけど、大好きなVillage Vanguardに寄っていたらギリギリの時間になってしまった。この町は本当に人に「時間」の概念を忘れさせる。(2月1日の項参照)

 舞台はシンプルな作りで、中央に台本が下がっている。そうか、やはりリーディングという形でやるのかな?と思う。上手奥にはテレビモニタがつながり、りえこさんと井手みなこさん、本日の出演者ふたりが「イチニ、イチニ」と走っている映像。来ているのはそろいのジョギングウェア。舞台の中央にはスケートボード。なるほど、これで役者に地を這わせるつもりか?と思った瞬間にわくわく度が急上昇した。

 構成は「ピム以前、ピムと一緒、ピム以後」の3部に分かれている。
「事の次第」初めて読んだ時はとても疲れて一気に読むことは出来なかったが、この果てしない概念の小説を、どのように舞台に乗せるのか、興味はそこに集中する。たとえ阿部さん、りえこさんが関わっていなくても、きっと観に行ったことだろう。そのくらいベケット後期の作品を舞台化するという試みは意欲的で建設的なものだと思うのだ。
 しかも、今回はドラマトゥルグの長島確さんが関わっているそうな。実は初めてお会いするが、日本ではまだなじみの浅いドラマトゥルグというものの可能性を考えるためにも、この舞台はいい指標になるのではないか。

 結果的に、りえこさんとみなこさんの発声がまったく異なることに煩わされてしまった。この芝居、できれば一人芝居でみたかった。ピムと一緒のところなんか、一人芝居でどんなに面白い見せ方ができただろうかと考えると逆に思考が広がりすぎるくらいだ。たとえば、袋とか、たとえば、うたとか言葉とか、ベケットの作品の中にちりばめられた記号を拾うことはきっととても丁寧に、時間をかけて手を抜かずにやってきたのだろう。(女優と、演出家が頭がいい人
である上にドラマトゥルグがついているのだ。この点鬼に金棒である。)しかし、客の感受性のアンテナがいまどちらを向いているか、そのことを理解し、舞台の上に載せる役割は誰かにふられていたのだろうか?

 クァクァ、というタイトルは、あるときは主人公の外界から、あるときは内側の世界から聞こえてくる何者かのなき声。とてもうまいタイトルだと思う。生まれる前の人間、生れ落ちてからの人間、そして死んでいく人間、彼らの心の叫びは「クァクァ」。どんなだったか?どんなだったか。それを見せるのがこの舞台。難解ではあるけれど、舞台を観に行く理由のひとつに「新しいものがすきだから」と言う人が居れば、是非見てもらいたい。

 これは、本当に人間の想像力の補える範囲の調査記録とでもいうべき、ベケットの作品であって、それ以上でもそれ以下でもない。一枚ずつ、応酬した言葉の堆積を創っていく演出、光がもっと工夫されていればとても美しかったことと思います。

お疲れ様でした!公演後あえなくて残念だったのですが。。。(>阿部さん)
 
 
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by uronna | 2005-02-04 23:45 | 劇評、書評、映画評

新国立劇場演劇研修所 ついに募集開始

新国立劇場演劇研修所 第一期生募集

2月3日(木)
節分。

3日くらい前から、新国のHPに出始めた。全国でたくさんの人が、これを待って毎日見たくも無い?変わりばえのしない新国のHPをクリックしていたことだろう。

しかしひどいなー。
何で年齢制限があるんだろ?国のお金でやってるのに?30以上でも、とても頭がやわらかくて、ついでも身体もよく動く俳優に何人もあってるぞ。

この募集期間の短さも、一体何を考えているのかよくわからない。夏にサマーワークショップを受けていた人間限定ってことかな?「知っている人だけおいで」みたいな?
誰が指導するかとかも、まったく発表されていないのねー。うーん。なんかへんなの。

倍率はすごいことになりそうですが、応募する方は理不尽なやり方に負けず、めげず、がんばってくださいませ。なーんてひと事みたいに。。。(だって、演出家コースないんだも~ん。)
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by uronna | 2005-02-04 04:24 | 舞台のおはなし

復活。


by kawasaki Alice
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