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二人一役が生きる。クナウカの「葵上」

3月28日(月)
レミゼ観劇のあとは、有楽町線で江戸川橋に移動。
クナウカの「Manma no janka project」(←このネーミングセンスが最高!)「葵上」が和敬塾にて上演されるのだった。冷たい雨が降る中、江戸川橋下車を選んでしまったことを後悔。ずっとのぼりの坂道じゃん…。

早く着いてしまったので、必殺の「フォーシーズンズホテル」利用。
このホテルは何度も利用しているので、中できょろきょろする必要もなし。普通に宿泊客か待ち合わせのライターっぽく、ロビーで仕事させてもらった。

さて、葵上だが、
無知な私は普通に三島の近代能楽集からやるのだと思っていた。(ちゃんともらったチラシは読みましょう)。謡曲の「葵」と唐十郎のドッキングとはね。さすが宮城さん、どうしたってストレートにはもっていらっしゃらないのですねえ。。。

しかしこれ、クナウカ方式にハマッテル。
葵と六条、Moverは別人だけどSpeakerは一人の女優さんがやってる。
これが、まさにこの芝居の演出を際立たせていたポイントのような気がした。六条も葵も、女の目から見ても怖いから、ほんとに。役者の体がとにかく鍛錬されていて、そつのない動きはほんとうに物の怪みたいだった。
会場も雰囲気ばっちりだったなあ。

なんとなく興奮しつつ、家路に着きました。誰かと語りたかったけど、こんな突発的衝動に付き合ってくれる奇特な人はまず、いないだろうな~。。。
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by uronna | 2005-03-28 23:58 | 劇評、書評、映画評

懐かしく、そして新しく

3月28日(月)

レ・ミゼラブルである。

最前列での観劇。とても久しぶりだ。
こんな良い席でミュージカルを見るのも、「レミゼ」自体も。
最後に見たのは、NYでもう数年も前になる。

私にとってこのミュージカルは、自分の原点ともいうべき作品なので、これについてイロイロ批評を加えるようなことは、出来ないし、しない。でもいいたいことはありすぎるのだ。主観的な意見だと思って、流してもらえればと思う。

困ったときには、常に心の底から珠玉のようにしまってあるこの舞台をとりだしてきて、思いを巡らせたものだ。演出家を目指さなかったら、今でもオーディションに参加しようなどと目論んでいただろうか。いまやエポやコゼットは目指せない年齢となりつつあるけれど。

キャストは山口バルジャン&岡ジャベール。
岡幸二郎は、私がかつて参考にしていた「アンジョ」である。とにかく背が高く、彫りの深い顔立ちの二枚目で、学生のリーダーとして常に光彩を放っていた。その岡君が、いまやジャベールだ。歌の巧さは、かつての今井清隆と比べてどうだろう。そのあたりがとても楽しみだった。

バルジャン山口祐一郎は、10年前に比べるとずいぶんバルジャンらしくなったなあ、という印象。加賀さんたちに混じってバルジャンに抜擢されたばかりの頃の彼は、まだ「若すぎる!」というクレームをかっていたのだが、独特のキモイ(失礼!)歌い方も慣れれば聞くことが出来、もともと歌唱力は高いので安心して観ることが出来る。

この二人以外に、実は見るものはあまりなかった。
特に女性キャストの不作ぶりはどうなんだろう。ここ数年みたミュージカルでも、そういえばあまり歌唱力の高い、あるいは存在感のある女優を目にしたことはない気がする。今回本田美奈子がどんな風にファンティーヌを演じるのか、そこを楽しみにしていたのだが、なんとご病気で降板、マルシアがとってかわるとなっては目も当てられない。まあ今日はマルシアではなく、違う人(もう名前も覚えてないや)だったのだが、いちいち息を継いだり伸ばしたりする毎に「H音」をいれるのには辟易してしまった。「ホゼット冷えるよほ ホゼットほやすみよほ はそびすぎて もほうよるだはよほ~」って何のこっちゃ、全く。
ルヴォーの「ナイン」と被っている女優さんも何人かいたが、「ナイン」のように歌をメインにしない演出ならともかく、レミゼは歌が巧くなければ見所半減なのである。どうしても、後継者不足という言葉が頭にうかんでしまう。エポもコゼも、ヘタではないのだけど、まだまだ物足りない!

また、アンジョとマリウスの華のなさにもちょっと悲しくなった。
マリウスはともかく、アンジョが学生たちに埋もれているのはいったいどういうこと?
「Do you hear~?」を謳い始めているのに、どこにいるかわからないなんて。。。
ABCカフェとバリケードのシーンで一番目立っていたのは「ガブ」だった。(あの子、巧い!)

テナ夫妻はいい味をだしてたと思う。
駒田さんは、斉藤晴彦の「腹黒ずっしり系」とも、笹野高史の「悪役ぎすぎす系」とも違う新しいテナ像を作り出していて良い感じだった。夫人は、ちょっとくどい感じがまあ、いいかな。

今回細かい演出が変わったところなどもあり、いろいろ楽しくみることができた。
結局、時代に合わせて変わらなければならないところはあるのだろう。
どうして、レミゼはこんなに世界中で受け入れられているのか。このことについて、考えるだけでも「大衆芸能」としての演劇、ミュージカルについて、幾通りも面白い解釈をすることができる。
この流動的なショウビジネス、あるいは舞台芸術と呼んでも良いが(このふたつに線を引くことはナンセンスだと、私は思う)のなかで、ひとつ心の拠り所となる場所があるとすれば、私にとってはこの舞台のバリケードの上なのだ。迷い、疑い、信じ、再び立つとすれば、それはここまで戻ればいいのである、そしてここから始まるのである。
そこだけは、迷わない。

5月の2000回記念キャストのチケットもかろうじてGET(大変だった…)。
今井バルジャン、加賀ジャベール、岡アンジョ、石井マリウス、島田エポ、岩崎ファンティーヌ、斉藤テナ。こちらの方が、実は数倍楽しみなのである。(懐古主義と言うなかれ、良いものは良いのだよ。)
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by uronna | 2005-03-28 22:29 | 劇評、書評、映画評

終着駅アメリカ

3月27日(日)
東京国際芸術祭のオオトリを飾る、目玉演目。ベルリン、フォルクスビューネによる『終着駅アメリカ』。これはテネシー・ウィリアムズ作『欲望という名の電車』をもとに作られた、大変に社会的な舞台、という下馬評。まあ、市村さんにしてみれば、苦労が多かっただけに、必ず大入りにしたい作品だったことだろう。

 しかしまあ、ベルリンって今もこうなのか、となんとなく安心してしまった。私がベルリンの劇団で働いてたのは98年。もう8年も前だが、あの良くも悪くも何に対しても破壊的衝動が原動力になるような舞台を、未だに当時のパワーそのままに見ることが出来るというのは、ちょっと涙モノだった。
 ブロンドのブランチ、ステラ姉妹。お腹の出たスタンリーとミッチ。ワルシャワ行進曲を水面下のBGMに、よくやるよ、と言いたくなる程のパロディオンパレード。演劇に限らず、ドイツの芸術表現は必ずといっていいほど、社会的背景、政治を組み込み、何かを批判せずにはおかない風潮をもっている。これはもちろん「アメリカ」そして「ドイツ統合」をきっかけとした「自由主義」に対する痛烈な批判劇、といえるだろう。厳しいという噂のテネシー・ウイリアムズの著作権保持が、このような戯曲の扱いを許すわけもなく、『欲望という名の電車』というタイトルをこの作品につけることを許さない。かくして生まれた『終着駅アメリカ』というタイトルは、この作品に相応しく「そこが地獄の4丁目」みたいな、そんな意味合いを含んだ風刺的なものになっていると思う。

 セットは、まるで趣味の悪い遊園地だ。
ずっとピンク色のあかりがさしている簡素なキッチン、リビング、そしてベッド。
バスルームはモニタされ、中に入っても外の人間から丸見え。誰かが用を足していても、シャワーを浴びていても、立てこもっても。そしてラストシーンでは、そのセットがまるごと「トップスピン」(としまえんとかにあるやつです。)この舞台が上がり下がりすることに、結構驚く。だってあまり必要だとは思えないもの。その辺が、遊園地。

カストロフは、ほとんどの舞台で戯曲を徹底的に解体してしまうことで有名なのだという。
解体することは、悪いことではない。でもこれって、現代社会に対する劇的なカンフル剤でしかないのではないだろうか?見た瞬間は、確かになんか身体を揺すぶられたような衝撃を受ける。でもそれが、この先何十年も心に残るものになるだろうか?
ならなくていい、というのであれば、それは今日の芸術論が、まさしく刹那的な価値観に基づいて語られているということの証明だろう。つまらない。
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by uronna | 2005-03-27 23:00

歯の根が疼くかもしれない 【授業】 再演

3月26日(土)
横浜BankArtにて、利賀演出家コンクール優勝作品の再演。
この会場、前にも宮城さん演出の浄土を観に来たが、最近注目のパフォーマンススペース。今回は一階ではなく三階のがらんとした空間を利用した上演だった。ちなみに一階では大野和雄のオマージュ公演をやっていた。

 さて、【授業】の作者ウジェーヌ・イヨネスコ(Eugène Ionesco, 1912年11月26日 - 1994年3月28日)は、フランスの劇作家である。不条理演劇を代表する作家の一人として知られている。ベケットとかと一緒に名前を書かれていることが多いね。
ちなみに以下調べたところによると、
 「ルーマニア人の父親とフランス人の母親との間に、ルーマニアのスラチナで生まれる。13歳までほとんどの期間をパリで過ごすが、ルーマニアに戻り、ブカレスト大学に入学した。1936年に結婚し、同じ時期にフランス語教師の資格を取得。1938年に博士論文を完成させるためにフランスに戻るが、1939年に勃発した第二次世界大戦のために、フランスに残る。そして二度目の結婚を経た後、著述の分野で才能を発揮し始める。
1950年に『禿の女歌手』を、1951年に『授業』を、1952年には『椅子』を発表。古典劇の規則を無視した「不条理」な作風が、発表当時は受け入れられなかったが、50年代後半より脚光を浴び始め、現代演劇史に大きな足跡を残すことになった。」
ということらしい。

その「授業」、登場人物は三名。
教師と生徒、そして教師の家政婦のような女、である。戯曲を読んだことがないのだけれど、利賀演出家コンクールでは戯曲を書き換えてはいけないことになっているので、おそらく役者がしゃべっている言葉=戯曲に書いてある言葉と思っていいだろう。個人の名前をもっているのはこの家政婦だけである。(マリー、という名前らしい) あとの二人は「先生」と「生徒」。戯曲にどう書かれているのか気になるところだが。

仲田恭子の演出では、この家政婦が豚のマスクを被って肉料理を作っている。
先生役はクナウカの役者さんで、若くて身体が切れる。(大道無門優也さん)
生徒役は、私が目を怪我しているせいで、あまり顔がはっきりとわからなかったが、よく通るアニメ声を持ったちょっと面白い女優さん。(あきやまかおるさん)

白い空間に、白い花嫁と花婿の格好をした男女。
なぜか下着にガーターベルトの豚女。
花婿は、自分の好みに合うように花嫁を「調教」する。算数の問題を解かせながら。
花嫁は、自分の得意な足し算をやっている間はお行儀良くしているが、苦手な引き算になると花婿の言うことをまったく理解しようとしない。でも、答えはあっている。彼女はすべての答えを暗記してしまっているのだった。「結果さえ同じなら経過はどうでもいい」のだ。
 
呆れた花婿は、言語学の勉強に方向を変える。
豚の家政婦はそれを止める「言語学はだめです」と。花婿はきかない。
花嫁はこの期になると虫歯の痛みを訴えだして、まったく花婿の話を聞いていないが、花婿は自分の持論を話し始めてもうとまらない。歯が痛いんです、続けましょう、そのくりかえし。

ベケットやイヨネスコの作品が面白くなるカギってなんだろう。
「解説」でもなく「解体」でもなく、「格闘」することかなあ。
だから役者の身体能力が問われるのだろう。
今回の演出も、静かな格闘があちこちにあって、それがたまにゾクっとさせられる面白さを持っている。『授業』を出品した演出家が一番多かったと聞いたけど、他にはどんな演出があったのだろう。ちょっと興味がある。
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by uronna | 2005-03-27 21:43

本朝廿四考

3月23日(水)
国立劇場にて
出演:中村時蔵(萬屋)、片岡愛之助(松嶋屋)、片岡孝太郎(松嶋屋)

12月から、何故か国立の歌舞伎を毎回欠かさず観ている。年末は幸四郎の勧進帳、新春は国宝二人のこちらはご贔屓勧進帳、どちらもベテランの技が冴えるいい芝居だったが、今回は若手メイン。現役高校生までいる、これはこれで若さ清新さが光る面白い演目でした。

私は月曜日から目を傷めてしまい、今日は左目がほとんど開かない状態での観劇。
普通なら家で寝ていなければいけないくらいの症状だったのだが、せっかくのご招待、それにとても観たかった演目、寝てなんかいられん、と気力を振り絞って国立劇場へ。本当は着物を着ていこうと思っていたのだが、それどころではなかった。天気も悪かったしね。
しかし、舞台はやはり照明が入るととてもじゃないけど直視できる状態じゃなくて、涙ぼろぼろこぼしながら耳を澄まして観劇してました。隣の人はさぞおかしなヤツだと思ったことでしょう。

ストーリーについては、こちらのページの劇評がとてもわかりやすいのでご参照ください。
とろりんさんの「カンゲキ通信」

 『本朝廿四孝』 は、1766年に全5段の人形浄瑠璃として初演されたんだと。武田信玄と上杉謙信の争いを背景に、足利将軍暗殺の犯人探索や、斉藤道三の暗躍を絡め、武田・上杉両家の子弟や家臣たちが、さまざまな悲劇を織りなす壮大な歴史もの。諏訪地方に伝わる白狐の伝説や、中国の「廿四考」の故事をも取り入れて作られ、文楽での初演がヒットしたことですぐに歌舞伎でも取り上げられ、こちらでも人気狂言のひとつに数えられるようになる。

 本朝というのは「わが国」。そして廿四孝というのは、中国古来の代表的な孝子(親孝行な子)24人の伝記と詩を記した教訓書のこと。だからタイトルを直訳すれば、「わが国の24人の親孝行な子」ということらしい。総合的にみれば、別に親孝行のハナシではないんではないかと思うのだけど。。。

それにしても歌舞伎って、見れば見るほど面白い!
以前私淑している演出家の人とも話したことがあるけれど、やっぱり【役者の身体能力】が抜群で、観ていて不安がないことが巷に溢れる演劇と違うところなのだろう。
そして踊り、台詞、音、舞台美術、すべてにおいて「不安にされることがない」というのは、やはり人間にとって何らかのキモチイイ状態なのに違いない。
みどころをきちんと理解しなければ語ることもできない、でもけっして敷居の高いものではない、歌舞伎を見る機会を、できるだけ増やしていけたら、いいなあ。

その前に目を治さなくては。。。(^^;)
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by uronna | 2005-03-27 20:21

四畳半襖の下張り

椿組の座長、外波山文明氏による一人芝居。花園神社のすぐ裏に3月11日に出来たばかりの新宿ゴールデン街劇場のこけら落とし公演である。
昨日錠さんたちは観に行っていて、絶対観るべきだと改めてプッシュされた。そうでなくとも楽しみにしていたが、否応なしに期待は高まる。

ゴールデン街劇場は、確かにせまいけれどかなり居心地の良い劇場、今日の感じだとキャパ40人~50人ってところかな。一人芝居観るにはちょうどいい。

さてこの芝居は、何故かあまり宣伝されてなくてオヤ?と思っていたのだけど、内容を知れば納得。かつてはワイセツ罪で捕まりかねない、永井荷風の艶っぽい文章が原作。
しかし、一人上手とは良く言ったもので、芝居でエロを扱うなら、一番効果的なのは朗読に近い一人芝居なんでは。下手な小説なんかよりよっぽど官能的。しかもトバさんの「名人芸」とでも言うべき熟達の演技は、只若い頃の武勇伝を若い記者に語るエッチなお爺ちゃん、ではなく、うつろいやすい人間の世の中で、唯一変わらないもの―男女の情事を至上に生きる、愛すべき人生の先達の姿に他ならない。

もともとストリップ小屋で、ショーの合間に見せていたというが、ひょっとするとダンサーよりもなまめかしい出しものだったのではないか?始めは新聞広げられてましたけど、長年やってると結構形になってくるものです、とは終演後のトバさんの言。

他にも椿組の若手がやる、オムニバス形式の芝居を何本か観ることができ、なかなかにオトク感たっぷりの公演だった。次にやる芝居のミーティングより、観劇に興じてしまった彼岸の午後である
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by uronna | 2005-03-21 17:02

ファミリア・プロダクション[チュニジア]『ジュヌン-狂気』

3月20日(日)

三連休なかび。
しかし、今日はやたら常磐道が混んでいた。。。
実は午後一で椿組の座長、外波山文明さんの一人芝居を観に行く予定だったのに、出先で渋滞に巻き込まれ間に合わなかった…。。。こちらは明日振り替えて観に行く予定です。

で、夕方からはTIFの招聘作品。またもやパークタワーホール。
ここって、仮設の座席が不安定で揺れるので微妙に見難いんだよね。去年揺れに酔ってた人見かけました(マジ)。今年も、あわてて入ってきた女性がみごとに転んでいた。
駅からも遠いし、あんまりいいハコだとは思えないのだが、TIFは気に入っているのだろうか。

この作品、原作は、ミシェル・フーコーの弟子でチュニジア人女性精神科医、ネジア・ゼンニの著作「精神分裂症(統合失調症)ディスクールの記録」なんだって。
演出家のファーデル・ジャイビは「現代のチュニジア社会そのものを物語っている」と舞台化を決意、脚本家・女優である妻のジャリラ・バッカールが脚本化。初演は2001年で、翌年、アヴィニヨン演劇祭、ベルリン演劇祭などでも上演され、ヨーロッパで大きな反響を呼んだ作品だそうな。(ほとんど、TIFのWebサイトの受け売りです、このへん)。

精神科医と、分裂症の患者のやりとり、ってことで思い出すのはもちろん、12月にArtPassで上演した、サラケインの「4.48サイコシス」。事実とてもよく似ているところもある。主人公は、自分の内部から響く声に怯え、時に暴力的に、時にこの上なく悲観的に周囲に感情をぶつけ、やがて医師の診療を愛と勘違いしていく。個人的な事情を扱っているようでいて、それが社会に対する痛烈なアピールだというところも、サラケインの作品と同様である。違うのは、サラの方はほとんどが医者、そして彼女自身に帰結していた問題が、今回の作品では「家族」というものに責任を振り分けられているところであろう。
それなりに、期待して行ったのだが、私の中ではなんとなく「みどころは15分~20分だけ」という感じがした。全体でゆうに2時間15分に及ぶ長い芝居にも関わらず。

だいたい、この「狂気」ってタイトルはいったい何なんだ?
狂気っていうのは、モチーフとしては取り上げやすいし、それだけに使い古されている。狂気を扱った芝居が横溢することで、一般のひとたちにとって演劇を「見難く」ひいては「醜く」していると思うのは、私だけだろうか?今の時代に、どうして狂気をこんなベタな形で表現しなければいけないんだろう?

前半、とにかく退屈。
観客に「我慢」を強いることで何かを感じさせようとしている見え透いた演出が、「ツーマッチ」で疲れます。
途中なんどか「はっ」とするシーンがなくはないのだけど、ほんと10分の1くらいの確率でやってくるので、そのときにあまりにつまらなくて寝ていると見逃す可能性アリ。
面白いな、と思うのは、動きがエスカレートしてダンスになってくるとき。始めからコンテンポラリーダンスのカンパニーだよ、って言われればそれほど抵抗もないのだけど。河野孝さん(演劇ジャーナリスト)が、劇評通信で「ピナバウシュの振り付けに通じる」と書いているが、それは私も少し思った。もっとも私の場合は、「岩下徹+ピナバウシュ」÷2って感じだけど(笑
後半になって、テンポがあがるか、というとそうでもなく、あいかわらず精神科医(女性)と患者(男性)の不毛なやりとりが続く。

ラストシーン、舞台背面上に設えられ、最初からかなり気になっていたホリゾントライト(観客席に向けて、ありえない向きでありえない高さに設えてある)が、垂直に動きながら舞台と観客席を照らし、そのなかで女医の質問に淀みなく答えていく主人公ヌン。ここだけ。ほんとここだけはかつての遊眠社ばりに観客のカタルシスを呼ぶいいシーンだった。もちろん、ストーリーを構築した末にここのシーンがくるからいいのだ、という意見もあるとは思うが、私は余計なものを沢山見せられた気がしている。ここだけでいい。この劇的かつ美しいシーンを、際立たせるためにも時間は今の半分で良い。


余談だが、利賀で出会った女優の一人が、制作助手?としてTIFのスタッフをしていた。
ほんと、世の中狭いなあ。。。
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by uronna | 2005-03-20 23:08 | 劇評、書評、映画評

ウズメの人でなしレビュー♪

3月19日(土)
雪山仲間の友人に誘われ、アートスフィアにて。

ウズメ、というと私にとっては、利賀村で親しくなった福岡の「うずめ劇場」が真っ先に頭に思い浮かぶのだが、こちらはチラシによると「裏宝塚を目指す」女性たちの集団らしい。

主宰の女性は30代後半くらいなのかな、どうもしゃべりが板についていなくて、観客がのっていけないのが残念だった。こういう「レビューもの」って、「くだらない」と思うのは当然なんだから、そのくだらなさを愛せるかどうかで勝負が決まる。私は前から二列目だったのだけど、そのくらいに座っている人間は全員舞台に引きずり込むくらいのパワーが欲しい。

その点、この劇団はスタイルとダンス能力重視でオーディションをしているのかな、舞台の上でお客を道連れにする能力がない女の子ばかりだった。比べるのもどうかと思うが、「毛皮族」あるいは「指ホテ」とどこか通じるものがある「セクシー」を売りにした舞台にしては、残念ながら全然それらの舞台に及ばない。たとえば毛皮ならヅカを意識した徹底的な本格的派思考があり、指ホテなら、「ラブリー、小悪魔、キラリ」みたいな女の子の使い方をとにかく研究している。どうしても、ちょっとダンスのうまいスタイルのいい子達が、自己満足の為にショーをやっている、ようにみえてしまうのだ、ちょっと残念。

でも個々にはみどころも沢山ありました。
フレンチカンカン、昔私が踊ったのとほとんど同じ振り付けでびびりました。
あわててコレオグラファーを確認したんだけど、知らない名前でしたし。あれに関しては、ほとんど映画の振りからとっていたから、似るのも当然なんだけど、ああいう群舞をもっとかわいらしく踊れるように工夫すれば、この劇団もっと面白くなるんじゃないかな。なんといっても、役者には結構恵まれていると思うので。

普段は、レビューだけでなくもう少しストーリーのあるものをやることもあるようなので、また機会があれば見てみたいものです。
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by uronna | 2005-03-19 23:42 | 劇評、書評、映画評

tptシアターコースだって

3月7日(月)
夏のWSでお世話になったtptからFaxで案内が来た。
シアターコース、という企画があるらしい。tptのワークショップは、かなり面白い試みをいろいろしていて、非常に意義深いという印象がある。ちょっと値段がたかくて手がでないが、進む道を考えている役者、演出家などの皆さん、よかったら申し込んでみては。

tptのページに詳細が載っています。
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by uronna | 2005-03-07 02:06 | 舞台のおはなし

伝説の演技者

3月4日(金)
クナウカ「山の巨人たち」二度目の観劇。

雪も降って寒い中、再び下北沢に行きました。目的はひとつ、クナウカの「山の巨人たち」を観にスズナリに赴くこと。二度目の観劇、仕組みもハナシもわかっていて、それでもドキドキするってどういうことだろうか。

前回はネタバレを恐れて何も書きませんでしたが、もう公演も終わっているので忌憚なく書きます。今回のこの公演、実は「看板に偽りあり」?ピランデルロの「山の巨人たち」をやると見せかけて「作家を探す7人の登場人物」にすり替えてしまう、という「どんでん返し」系。だれかが「シベリア少女鉄道っぽい」と言っていたが、それはどうかねえ。。。まあ、観客の期待を裏切る、という点では近いかもしれないが、シベ少の場合は裏切られることを楽しみに来ている観客ばかりなので、クナウカがやる意味とは大きく違うのだろう。

この芝居、「演出家」という登場人物がいる。
これが、「伝説の演技者」宮城さんの役。噂に高いミヤギサトシショーのビデオはいくら頼んでも見せていただけないんだが(^^;)、とにかく宮城さんの演技が見られるというだけでもこの公演、話題沸騰というところだろう。

不可能を、舞台に乗せる。
tptのアリのWSを思い出すような言葉だが、突き詰めていけばそれが舞台を創る醍醐味でもあり、意義でもあるのではないだろうか。観客の想像力、という要素が強力に絡んでくる以上、舞台の上に不可能はない。「不可」はあるけどね、(笑
だから観客とのコミュニケーションがなにより大切だし、やりたいことだけをやっていても「自己満足」といわれてしまうのだ。
途中で「演出家」は登場人物の一人に言う。「あのね、あなたね。あなたがやりたいことをすべて乗せればいいってもんじゃないんだよ、舞台は。100パーセント出し切ればいいってもんじゃない。むしろあなたが100パーセント持っているのなら、それを20パーセントに抑える努力をしなきゃいけないんだよ」(厳密には覚えていないが)。
高校生くらいまでの間に、こういう「全力投球」の芝居を見て引いてしまい、それ以来演劇嫌いになった人も多いだろう。「覗き込まれる演技」よりむしろ「連れ去る演技」型のクナウカの主宰が、やはりこういう思想を持っているというのは、意外でもなんでもなくて、それが芸術表現というものの「真実」だからなのだろう。

しかし、伝説のベールを脱いだ宮城さん、面白かったなあ。
前回見たときは、なんとなく「演技をしていない」、素のままクナウカの演出家の宮城さん、だった気がしてしまったのだが、今回は見事に主役でした。こののりの違いが、まさに「演劇は生もの」を体現しているなあ。。役者さんやそのほかの要素が、この仕組みに慣れてきて漸く自由に演技をできる空気が生まれたのかもしれない。試み自体、かなりキケンでチャレンジングなものだっただけに、それが奏効しているのを見るとやはり、この劇団と宮城さんのすごさを改めて感じざるを得なかった。
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by uronna | 2005-03-04 23:33 | 劇評、書評、映画評

復活。


by kawasaki Alice
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