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音楽座ミュージカル『アイ・ラブ・坊ちゃん』

相模大野グリーンホールにて。
音楽座初見。

このお話、主役は「坊ちゃん」というよりも夏目漱石。
創作に、人生に悩む漱石と、その先達ですでになくなってしまった正岡子規との話を、小説の中の坊ちゃんと山嵐の関係になぞらえている。
日本に野球を広めた子規の生前の姿が、漱石を励まし、「坊ちゃん」を書かせたというそんな筋書き。こういうのって、脚本由来の舞台だよなあ。脚本家っていう人の存在が前面にでている、というか。ミュージカルの作り方にはいろいろあるけれど、音楽座は「文学」由来の劇団なんだなあと思う。

ミュージカルには様々ありますが、私がミュージカルに必要だ、というかこれがないとだめでしょ、って思うものは
1:音楽の良さ
2:役者の歌唱力
3:ストーリーの良さ

つまり、まあ、実は踊りっていうのは、二の次かもっておもうわけです。
(人によっていろんな考え方があると思うし、違うっていう意見も勿論有りだけど)
でも、歌がうまくないとミュージカルではないと思ったりもして。

踊りはあると華やかだけど、ないもの(たとえばレ・ミ)だっていい役者がやれば最高にいいわけで。歌だって表現力の一種で、たとえばオペラ歌手のようなうまさを期待しないけれど、心が震えるような歌を聞けることを期待して劇場に行く。

そして、最近ミュージカルが面白くなくなっていた理由の一つが、ストーリーの貧弱ゥ!なところ。踊りや歌に依存するあまり、物語はあってないようなものになっていたりして、これもやっぱりつまらなかったりする。別にストーリーにドキドキしたくて見に行くわけではない。たとえば今までの人生で10回も見ているミュージカルもあるわけで、もうわかりきったストーリーではあるけれど、やっぱり涙がでるほど面白い。ストーリーがしっかりしている、というのは、常に芝居に芯を持たせるんだと思う。ロングランになる作品は、必ず、しっかりしているんではないか。脚本が。

そういう意味では、この坊ちゃんは面白いとおもうわけですよ。

とりとめもなく

おととひの
へちまの水も
とらざりき (子規)



みどりごの
笑ひて嬉し
半夏生 (蛟)

やわらかく
透ける蝸牛と
葉を食し (麒麟)




正岡子規に妙に私淑する今日この頃です。
歌よみに与ふる書、読み返してみてます。
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by uronna | 2007-06-30 13:58 | 舞台のおはなし

殯(もがり)の森

シネマ・アンジェリカにて
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わたしは、生きているんでしょうか?


殯(もがり)
敬う人の死を惜しみ、
しのぶ時間のこと
また、その場所の意
語源に「喪あがり」
喪があける意、か。

カンヌの申し子、河瀬直美監督の最新作を見てきました。

この作品、見終わっていちばん驚いたのが、ネットに溢れる素人酷評。
どうやら封切り前にBSでもう放送されたらしく、劇場まで足を運んでお金を払ってみた、わけではない人たちの評が沢山、ネットにすでに氾濫していた。
確かに、何か劇的なことが起きる、面白い映画ではない。
しかしながら、いったいなにを期待してそのひとたちはこの映画を観たんだろう、と不思議に思う。だいたいはじめから、こんな映画がおもしろいわけがないではないか。

演劇界では既に「静かな演劇」の見方が浸透しているが、映画界ではそうではないというのだろうか。映画というのは、演劇以上に監督の「世界観」と「感性」がすべてを決める芸術だと思うが、そこに自分の生き方をも素直に投じることで作品を完成させてしまうこの監督のまっすぐさが私は嫌いではない。
音の悪さが気になる、が、自分自身が森の中を彷徨っているような不安感が煽られて逆に効果的なのかも、と思う。とってつけたような展開も、まるで青年団の演劇を見ているように感じ、違和感はない。思い返してみれば色々とケチをつけたくなる気持ちもわかるが、あえてケチをつけずに森の深い緑を受け止めると、妙にずっしりと忘れがたい感慨が心に残る、これはそんな作品である。

あと、いくらハイビジョンでも、TVよりやっぱりスクリーンで見たいかも。。。
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by uronna | 2007-06-29 13:56 | 劇評、書評、映画評

劇団四季『ウィキッド』

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エルファバ:濱田めぐみ
グリンダ:沼尾みゆき

普段ならキャストなんかどうでもいいのだけれど、エルファバ役の濱田さんには劇団四季俳優には普段あまり感じない「表現力」を見たので、記録しておく。


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by uronna | 2007-06-29 12:42 | 劇評、書評、映画評

『サド侯爵夫人』 SPAC 『召使マッティ』テアトロ・マランドロ

6月24日
静岡春の芸術祭も残すところ2週となり、この週は鈴木忠志演出『サド侯爵夫人』と、スイスのカンパニー、テアトロ・マランドロ『ミスタープンティラと召使マッティ』を観るために遠征。
http://www.spac.or.jp/artfes07/12.html

テアトロ・マランドロの作品は仮面劇。
たった6人~7人くらいで、20人くらい出演しているように見せてしまう。
チョコチョコとこまかく動き、そして常に賑やか。

対照的な鈴木忠志の舞台。
衣擦れの音をさせて舞台に出てくる役者は、自分の足で歩いているにも関わらず「せりだし」て来る様。

マランドロの作品の作者はブレヒト。
没後100年が経過し、著作権が解放されたおかげか妙に最近流行っている。
戯曲で読むと本当に面白い「音楽劇」。しかしなかなか面白い上演に出会えない。

「サド」の作者はいわずと知れた三島由紀夫。
今回上演された第二幕の登場人物は、サド侯爵夫人のルネと、その母親モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、そして、悪徳をその身一つに引き受けてサドの代りに燦然としているサン・フォン夫人。
とにかく、サド侯爵のイメージだけを引き継いで本人を舞台には出さず、それをとりまく女性達だけの舞台にしてしまった近代台詞劇の傑作。

終演後のアフタートークでも鈴木忠志氏が言っていたが、対照的な二つのものを一日の間に観たかんじ。ブレヒトも、三島も、特定の登場人物に共感、感情移入をできないつくりなっているので、そういう感じを求めていくとこの日は空振りになる(笑)。
どちらも高いレベルで様式化されているので、何度でも繰り返すことが可能だし、役者の個性をあえて埋没させることで、抑圧されたパワーが緊張感を生み出す。
片方は仮面一枚の下に生き生きとした「顔」を隠し、一方は厚く鎧われた体の中に「心」がしまわれている。表面に見えてくるものの滑稽さや凄まじさに戯曲の「普遍性」と演出家の「信念」を見ることが出来るが、駒と化した役者の「かお」と「こころ」にそのときなにが起きているのか。そちらのほうが少々気になってしまうのは、ひねくれた見方だろうか…?^^;
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by uronna | 2007-06-24 23:19 | 舞台のおはなし

バッコスの信女

↓(知らないウチに、上野公園にオブジェが誕生していた。青テントの人々はどこへ…)
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上野・東京国立博物館内にある映画小屋、一角座にて。
http://ameblo.jp/balltzara/
(公式ブログ)

ク・ナウカがソロ活動メインになって初めて、所属俳優が企画し、多数出演する公演があった。
演目が「バッコスの信女」というところがまたニクイですね。(SPACの「デュオニソス」もこの同じ戯曲。)一応、身内の公演ということで、公平な批評などとてもできるわけなく。感想もおこがましいので、「所見」程度にどどばりばし、じゃなくて留まります。

二人一役、というのが、ク・ナウカのお家芸だったわけだけれど。
今回の出発点は、その「お家芸の継承」ということだったのかな。

舞台には様々な表現方法があるのであって、その中で二人一役、つまり言葉と身体をわけてしまったことはとてもとてもエポックメイキングなことで。
言葉を取り上げられた役者、動きを封じられた役者、お互いの制約に縛られる中でその表現には日常では起こり得ないことが沢山起きてくる。
舞台に「非日常」を求めるのであれば、それは本当に美を超えた美、生を超えた生に成り得る。その手法自体は、システム化できるものである。それをむしろ、沢山の人が使うことがこれから起きてくるならば、何年かのちには演劇の一手法として、誰もが使っていいものになるだろう。つまり、「二人一役」の「ひとりあるき」?たくさんの人の手垢にまみれてこそ、芸が洗練されていく、という見方もある。

ま、前置きが長くなったが、「今、これをやらなければ前に進めない」という確固とした意志の見えた創作だったと思う。完遂したことに、手放しの拍手を送りたい。賑わいのある、それでいて真面目な芝居だった。苦労のあとは公式のブログでも見られますね、本当にお疲れ様でした。
演出を担当した大道無門氏↓ 二日目、新緑が鏡のように光を反射する晴れのマチネー。

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ちなみに会場のいっかく座は、場所の引力というか、独特の磁場を持つ、すてきな小屋でした。
どうやら本来の機能に戻ってすぐに映画の上映があるみたいですが、なかなか面白そうです。興味がある方は是非(特に初日に行くのが、映画館にとってもうれしいみたいです)観に行ってみてください!

大和屋 竺監督4本立て!!!!!
7月7日(土)~13(金)・8月4日(土)~12(日) 15:00/17:00/19:00
「愛欲の罠(ニュープリント)」
・毎週土曜日トークイベントあり!!!
<ゲスト>7月7日→秋山道男・小水一男 8月4日→上杉清文・荒戸源次郎 8月11日→
浦沢義雄・大和屋暁

7月14日(土)~20日(金) 17:00/19:00
「毛の生えた拳銃」
<ゲスト>7月14日→麿赤児・大森立嗣 7月15日(日)→大久保鷹・上野昂志

7月21日(土)~27日(金)
「裏切りの季節」
<ゲスト>7月21日→河内紀・上野昂志

7月 28日(土)~8月3日(金)
「荒野のダッチワイフ」
<ゲスト>7月28日→菊池成孔・荒戸源次郎

一角座HP
www.ikkakuza.com


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by uronna | 2007-06-23 01:52 | 舞台のおはなし

「グリング ヒトガタ」

以前から気になっていたグリングの芝居を観に行ってきました。
チケットが売り切れてあきらめかけていたところ、ネットで知り合った燐光群の役者さんに都合していただいて、無事に観ることができました。Eさん、ほんとうにありがとうございます。

ウェルメイドプレイ、とよばれるジャンルの芝居を観に行くのは本当に久しぶり。自分とは一番縁遠かった演劇のカタチです。
しかしながら、しっかりした実力をもった役者があつまって、しっかりした戯曲をやると、あたりまえだけどしっかりした舞台ができあがるものなのだ、と改めて実感しました。

ちょっと前ならこういうのは、映画で見ればいいのではないか、と思っていたのですが。少し意見が変わりつつあります。
スペクタクル感ではなくて、ボディブローのようなじんわりとした効き方で、笑と怒り、そして涙なんて、AAでも表せるような人間の基礎的感情の生まれて消える様をを描く。こんなことを言うのはなんですが、20年後の「中学生日記」を見せられているような気がしました。(これは、もちろん皮肉なんかではありません。時代も変わって人も大人になれば、当然このような物語になるのです。)

いつか立ち読みした雑誌に書いてあったのですが、宮崎駿は飛ぶ主人公ばかり描いてきた、と。それに対して今の時代に必要な主人公は、「歩く」のだと。だから、「ゲド」の監督宮崎吾朗の作品には、父が描く主人公の持つような飛翔感はないのだと。
人間はより空に近づき、モノヅクリの技術は神の領域を侵そうとしているのに、人は大地を這うようにして生きつづけているし、それを示すことが必要だと考える人がたくさんいるのですね。

グリングの芝居も、基本的に飛ぶ人はでてきませんね。死んだ人の影が大きくおちることはあるけれど、等身大の人間は等身大のままです。観客よりも明らかに大きかったり小さかったりする人はでてきません。

最近、日本の映像の演出がとても美しく、派手になってきて、映画を見に行っても、超大なスケールの、例えば「色彩感覚」、例えば「異世界感」、例えば「夢物語」を見せられることが多いのです。それなのに、日本映画に特有の繊細な感情の綾は保たれたまま。邦画、ほんとに熱いんですよね。

リアルな身体で舞台を使ってやることの意味は何かということを改めて考えることが増えました。なんか特別なことがおきるわけでもない日常で、すべては個人的な問題に帰結する世の中で、演劇になにができるのか。

自分なりのこたえを見つけたら、たぶん次に進むことができるのですが。

Ashleycat
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by uronna | 2007-06-16 23:56 | 劇評、書評、映画評

ピッポ・デルボノ『戦争-Guerra-』 『沈黙-Il Silenzio』

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静岡春の芸術祭にて。
「戦争」((写真左)は芸術劇場、「沈黙」(写真右)は野外劇場で上演された。


詳しく劇評を書くことなんか、できようもないということに気がついたのは、観劇後十日たってもまったく消化できない生もののように、この作品が身体のなかに残っているからだ。

これが舞台なのか。
これが人間なのか。
これが世界なのか。
これが、愛なのか。

誰にも真似のできない、これは作品だった。
立ち会えたことに感謝するしかない。


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by uronna | 2007-06-10 02:56 | 劇評、書評、映画評

パスカル・ランベール 「愛の始まり」

こまばアゴラ劇場にて

白いだけの空間、
中央にスタイリッシュなバイク、
天井に配列された蛍光灯と、その配電線が無数に、ひとたぐり分ほど垂れ下がる。

役者二人、
パスカルとその恋人の愛が始まった瞬間の、はじまりとおわりの言葉群。

端正かつ濃厚。

フランス人らしさ、というものを考えずにはいられない。
愛を語るのに、フランス語ほどしっくりくる言語はないのかもしれない、ということも。

今回は青年団の役者ふたりがもとはフランス語のこの戯曲に挑んでいるわけだが、日本語で語られるその台詞には微妙に、違和感を覚える。
役者が下手なわけではなく、おそらく演出の問題。
日仏学院で見たパスカルの過去の作品の映像で見せられたリアルなパワーのようなものが消えて、かわりに「愛」というタイトルの絵画を見せられた感じ。

裸になるか、ならないかということが問題ではなかったような気がする。
戯曲の面白さは、疑い得ないものなんだが、この「私小説、ならぬ私戯曲」を本人が日本人を使って演出する、というところに、もうほんのちょっとだけ警戒をして欲しかったような。

挿入歌のように使われている歌も、三回めくらいからToo muchに響く。
やたら耳にのこる美しいメロディが、いつまでも悩ましい。

パスカルのほかの作品を、フランス語の上演でみてみたいものだった。
やはりジュヌヴィリエ国立演劇センターまで、足を運ばなければならないだろうか…。

パスカル・ランベールWebサイト
ジュヌヴィリエ国立演劇センターWebサイト:
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by uronna | 2007-06-08 01:32 | 劇評、書評、映画評

もの思ふころには明けやらで

ブログは全然更新しないのか!?

というお叱りを受けて、あわてて沢山アップしました。
沢山アップしたせいで、内容薄めですが、お許しを。
まずはキャッチアップ、それからステップアップです。

さて、一つ最近決断したのは、今年は利賀演出家コンクールへの出場を見送ろう、ということです。まあ、理由は色々あるんですが、わたしのなかでぽっきりと折れたものがあって、ですね。(あ、心じゃないですょ。心だけは何があっても折らないので。)

ネガティブな意味あいはなくて。むしろこれは非常にポジティブに捉えているんです。
折れたものを修復するのではなく、その先端で道を切り開いていくというか。


つまり、失ったところから何かを生み出すことができる、と。
迷いつつ進むことになりますが、決して迷走はしないでしょう。

あいかわらずマイペースですが、応援してくださいね。
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by uronna | 2007-06-07 03:34 | その他のおしゃべり

「パスカル・ランベール&岡田利規 トーク」

青年団から案内の来ていた「愛のはじまり」。
演出家のパスカルのトークがあるんだ、と思って何気なくチェックしていたら、なんと司会が我らが恩師、熊倉センセ♬(*´∀`)
パスカル・ランベールを迎えて

これはいかねば、と万障くりあわせる。

しかし、しかし。
あとで青山監督の新作上映もセットになっていたせいか、整理券が手に入らない!?
せっかくきたのに…。
やっとのことで、トークの整理券だけは手に入れる。

しかし…トーク、面白っ!!!

パスカルの作品も面白いし、話しているひとつひとつのことが、まさしく「そうだよなあ。。。」と納得できる。本質的で、大切なことをいくつも言っていた。

私が共感したのは、

「台詞を書くとき○○を意識していつも書いている」
「現代を描くのだから、○○は小さくていい」
「目に見えないものと、目に見えるものが混在していることを忘れずに言葉にする」
「芸術監督としてやりたいと思っているのは、子供たちと何かをすること」

などなど。
岡田さんの話も、アーティストインレジデンスについて興味深いことを言っていて面白かった。

ああ、パスカルの映画もみたかった…。青山監督の「こおろぎ」も見たかった。
なんで、こんなに人がいるんだ、日仏学院よ…。(TД⊂
そして、なんでこんなに融通がきかないんだ。そういうものなのだ、おおフランス。(笑)

まあ、第一の目標だったトークは無事に聞けたし、よしとしよう。
映画は映画である以上、見る機会が永遠に失われたわけではない。
しかしトークは、今、ここでしかきけないんだから。
そして先生にも再会できて、気持ちがリセットされて、良かった。
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by uronna | 2007-06-02 02:00 | 舞台のおはなし

復活。


by kawasaki Alice
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