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「赤鬼」日本バージョン千秋楽

10月20日(水)

OBSC航海記、続々アップされております。
http://blog.livedoor.jp/ash_sseayp/チェキラー♪

さて、今日は野田秀樹の「赤鬼」日本バージョンの劇評を。
ロンドン、タイと見てきたので、どうしても日本を見逃せず、授業をさぼって行ってきた(コラ)。千秋楽、マチネ。会場には日比野さんを始め、色々な関係者の顔がみられた。

シンプルな舞台美術は、タイバージョンと共通している。やはり日比野美術はシンプルが基本なのかな。空豆形のそう大きくない舞台。一部が蓋になっていて取り外しがきき、それをゴムの浮きの上に乗せてボートのように使うのにはちょっと驚いた。役者が上にのって、安定を保つのは結構難しそうに見えたが、小西真奈美も、赤鬼役のヨハネス・フラッシュバーガーもコツをしっかり掴んで危なげない演技をしていた。

音楽はロンドンバージョンと同じものを使用していた。パーカッションをメインにもってきていたタイバージョンに比べると、日本とロンドンは受ける印象が近い。出演者は今までのなかで一番すくなく、主要人物の4人だけ。必然的に「村人」の役を赤鬼以外の3人が演じることになり、野田演劇特有のスピーディなテンポによってそれが違和感なく理解される。

ロンドン、タイと赤鬼を演じていた野田秀樹が、ここでは「ヒロインの頭の足りない兄貴」とんびの役。ロンドンバージョンでかなりよかった水銀(ミズカネ)は、今が旬と噂される大倉孝ニだ。映画「ピンポン」のアクマ役での名演は記憶に新しい。

アウトサイダーを疎外するコミュニティの悲劇を描いた「赤鬼」は野田秀樹のロンドンでの演劇修行体験から生まれてきた戯曲だといわれている。野田は、ロンドンで演劇活動を開始するにあたって、日本で築いてきた名声や評価をひとまず捨てて、裸同然の一人の演劇人としてその封建的な演劇界に入って行ったという。そして6年。今までのステイタスを利用することなく、その演劇界で認められるまでの存在になった。それは野田の機知と才能、実力を再立証するできごとであったに違いないが、その間に日本のファンは「野田はもうだめだ」等という出所の知れぬ噂に振り回されつつ、その再登場を待たねばならなかった。
その間、「鬼才」野田秀樹は、自身を「鬼」と捉えるような様々な経験をしたことだろう。肌の色や目の色、言葉といったものを取り払ったとしても、そこにあるのは「伝統」を守ろうとする閉鎖的な世界。その中に単身で乗り込んで行くものは、必ず排他感情に直面する。人間はまず自分を守ろうとするからだ。

赤鬼役の野田秀樹、とんび役の野田秀樹。
どちらも、天才野田秀樹によって演じられると他の役者がかすむ程だ。
ここでこの3つのバージョンの優劣を決めるのは、他の役者の演技、そしてコンセプトのなめらかさではないかと思うが、私はこの三つの作品を別々の作品としては捉えることができない。なぜなら、これをロンドン、タイ、日本の参加国の俳優を使い、それぞれの国で上演し、日本でまた上演する野田秀樹の思想をこそ、私はすばらしいと思うからである。これからどの国で上演されてもきっと面白いだろう、そう考えることが出来る戯曲を書いた野田秀樹の戯曲作家としての手腕をこそ、私は一番に評価したい。野田は私の中では尊敬すべき「戯曲作家」なのである。

ラストシーン、遠ざかっていく潮騒の中で野田が叫ぶ「絶望」ということばは、なぜか「希望」という響きを帯びている。I have a dream, that someday let freedom ring the bell from all villages, all towns, all cities...(そう聞こえたんだけど、間違っているかも)という赤鬼の叫びは、その意味が分かる、分からないに関わらず観客の胸に落ちる。海の向こうには、希望がある。島国であるにっぽんに生まれた我々がこの芝居を見る意味は十二分にある。
by uronna | 2004-10-20 21:59 | 劇評、書評、映画評

復活。


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