『南へ』NOD A MAP1

こういったことで、自分のところの公演も伸びたことだし、手当り次第にやっている劇団を観に行くことにしている。つまり、それが今わたしにできることである。

寄付をして、節電をするというのは個人として大切なこと。
それにプラスして、自分が生きている場所といったら、それこそなんと呼べばいいのかわからなくてこういう時に面倒くさくて困るんだけど他にないからこの言葉を使う『演劇界』なんですが、そこに生きている人間としてやれることっていうのは、舞台を創ることしかないんですね。創れないなら、せめて観に行く。

「なんで?経済の復興に関係なくない?」って思うかもしれないけれど、経済って何か生み出して売って買ってだけで発展するようなそんなシンプルなモノでもない気がするのです。確かに経済が発展しているまっ最中には文化や芸術は後回しにされるものですが、一度経済が発展した社会において、人間とともに文化の木はかなり成長していて、そこで熟した実はいちど落ちてつぶれたって、幹や枝が無事ならば冬を越えて木はまた花を咲かせるものでしょう?むしろ、無理矢理花や実を刈り取って根幹をダメにしてしまうような動きこそ警戒しなければいけないのではないかな。予定していた公演ができなくなったことで、今小劇場のほとんどの劇団が大ダメージのはず。

「意味があるのかないのか」ではなくて、みんな本当にやれることをやっているだけなのだ。それが意味があるのはそれぞれの人生においてでしかないかもしれないけれど、芸術活動に打ち込んでいる人間の人生に意味がないようなことになったら、それこそ文化の幹は枯れる。

いまさら議論するまでもないけれど作家は話を作る人で、演出家は舞台を創る人で、俳優は演じる人。平常時、自衛隊は出番がなくて文句を言われながらも、訓練を続けている。でも有事には本当に頼れる。それと反対で、平時には「人に元気を与える仕事」と言われていても、有事には「出番無し」と言われてしまうのが俳優や野球選手。それでも訓練を怠るわけにはいかない、だって国が復興したら、文化も復興するんだから。だから舞台やフィールドに立ち続けられる人は立ち続けるべきだし、今立てない人も訓練だけは続けるべきなのだ。で、何が言いたかったのかというと、演出家にとっては、他人の芝居や現場をみることは「素振り」みたいなものだ(意外かもしれませんが「偵察」ではないのですよ。勝ち負けのあるものではないので)、ということだったりする。

で、ようやく「南へ」の話に入る。

今回の野田サンの芝居は、戯曲を「新潮」に掲載済みだったため内容は既に読んでいた。そこにきて、この地震である。空恐ろしくって…でも「絶対観なきゃ」って思ったわけ。
で、劇場にいざ足を運んでみると、これが意外と客の入りが良かった。まだかなり余震も続いている状況の中、芸術劇場の中ホールは賑わっている。駅の周りが閑散としているだけに、妙な熱気をそこだけ感じて嬉しくなる。

こういうとき、人はやっぱり「集まりたい」んじゃないかな。
劇場に日常的に足を運ぶ人なら知っている通り、劇場に人が集まるのと、映画館に人が集まるのとはかなり違う。劇場は「ゆっくりするため」とか「ひとりになるため」や「恋人といいムードになるため」の場所ではなく「自分と他人(言い換えれば『世界』)の関係について再確認するため」の場所なのだ。だから、ここには、同じ「熱さ」のひとが集まる。

私は、いまこの芝居を見ないといけない、と思っている人たちと同じ空気を吸いながら、中ホールのいすに腰をおろした。なんだろう、この幕が開く前から同じタイミングでドキドキできる、共犯めいたかんじ。

そしていよいよ幕があいて…
と書きつづけたいところなのだけれども、

長すぎだよ。前振り。
もう21日はとっくに終わっちゃって、22日も終わっちゃったよ。
…すみません。でも一応このエントリは21日のままでいきますが、
やっぱり長すぎるから「南へ」の続きは22日のエントリにします。ちょっと待っててね。




 
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by uronna | 2011-03-21 06:00 | 舞台のおはなし

復活。


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