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「Loves me, or loves me not」 砂連尾理+寺田みさこ

2月11日(金)
 シアタートラムにて。
ポストトークに「地点」の三浦基さんが来るというので、実はそれもかなり楽しみにしていた。

 会場に入ると、まず思ったのが「お、やっぱりバレンタイン企画か?」
舞台上には上手よりに十字に赤い砂が敷かれ、下手にその赤い砂が砂場で子供が作るお山大に盛られている。舞台奥に片足ずつを縛られて二人用になった赤い椅子。それだけでバレンタイン?と思われるかもしれないが、町中のオーナメントを日々目にしていると、作品のタイトルもあいまってそういう風に見えてくるものだって。いやー人間の空想力って不思議…。

 結構前の方の席をとったのは、二人の顔がよく観たいから。コンテンポラリーのダンサーの表情については、私はたまに動き以上に観る価値があるんじゃないかと思っているが、ポストトークの三浦さんの話を聞いていてますます「そうなんだよな~!」と腑に落ちた。

 みさこさんは、遠めにも「きれいな人だ」とわかるけれど、近くで観るとますます「ロシア系」。はっきりした顔立ちに、白い肌。しなやかな肢体。まず、「普通の人じゃない」。
一方で砂連尾さんは、さっぱりした顔立ちで、スーツが良く似合う、加えて開襟シャツも良く似合ってしまう、「普通の人」。動きも「これぞダンサーの動き!」っていうよりは、日常生活をしているとふと妙な動きをしてしまう、といった感じ。そのふたりがデュオで踊る。それはデュオであって、デュオでない。ふしぎな不思議なソロダンスの共演なのだ。

 黒いドレスのみさこさん、砂連尾さんの影でそれを脱ぐ。下着も黒。音楽はベートーベンの「月光」第一楽章。もちろんずっと「月光」が流れているわけではない。しかし、他にかかっていた曲を忘れてしまうくらい「月光」は強い。こんなクラシックを持ってくるとは、珍しいことではないか?とちょっと驚く。

 上から「お人形さん」が落ちてきて、みさこさんはそれを足の指に挟んだりして戯れる。砂連尾さんはそれを踊りつつ「静かに見守る」。人形のほかに、トラックのラジコン?が登場したりと、どうやら昔の記憶をたどっているのかな、この人たちは、と思う。

 第二部は、お掃除。そこらじゅうに散らばってしまった赤い砂を、掃除機で吸い込もうとする砂連尾さん。ほんとうにお掃除している「主夫」の人みたい。一方クイックルワイパーのようなものをもって現れたみさこさんは、どうみても掃除しているようには見えない。だんだんワイパーすらも掃除用具に見えなくなってくる。ふたりは実際、掃除してなんかいない。だって赤い砂は、彼らがその手に持った用具を駆使するごとにますます散らばっていくのだ。

 床を這い、身体をくねらせる二人。まったく別種の動きをしていながら、ふたりで全く同じタイミングで踊る瞬間はぞっとするような興奮がおきる。別に音楽でカウントをとっているわけではないのだ。この計算しつくされた身体のうごき、これは確かに創作に時間がかかるわ。(昨年の5月からずっと少しずつアレンジを加えて作り上げて行ったそうだ。)
赤い砂の上で背中を這わせていた砂連尾さんが起き上がると、白いシャツの広い背中に、赤いハート型の汗が浮かび上がった。やっぱりバレンタイン企画だった(笑。

 おそらく誰もが「はっ」として目を奪われる、みさこさんが砂連尾さんの腕に抱かれて正面を凝視しながらその身体の影に沈んでいくシーン。(そこを三浦さんは「よかったね。」と言っていたが)私もここで安心したのだった。収まるとこに収まるものを見ると、人間は必然的にほっとするのだなあ。
 つまり私はふたりの関係性をずっと追っていたのだ。まったく関係ないように見えるのに、たまにシンクロするふたりのダンサー。やはりソロじゃないんだ。このふたりだから、この作品は面白いんだ。最初から最後まで、二人の関係性を観客は考え続ける。ふたりの表情から目が離せなくなるのもそのためだ。「彼らは関係あるのか?」「いや、ないんじゃないか?」「相手のことを考えているのか?」「考えていないだろ。」
 二人がばらばらに踊っている間、私たちはダンサーたちと三角関係にある。そのひとつの辺が伸びたり縮んだりしながら、ついにくっついてしまう瞬間にのみ、私たちは彼らを「デュオ」として捉え対等の関係で対峙する。その繰り返しなのだ。緊張と弛緩。こんな言葉にしてしまうとなんだか急に月並みでつまらないが、だから「じゃれみさ」の作品は気持ちいいのだ。ゆるやかに、いろいろばらばらにぼやけて見えていた断片が、急に焦点をあわせて視界に飛び込んでくる。「おっ」と思うと次の瞬間にまたばらばらになる。その緩急の付け具合も絶妙。

 「じゃれみさ」はやっぱ「じゃれみさ」じゃなきゃだめなんだ。この「日常」と「非日常」を体現する男と女のデュオだからこそ、観客の想像力は果てしなく広がる。(この観客の「想像力」こそが舞台芸術を面白くするKeyであることは言うまでもない。)「ことば」というものが「概念」の集積であれば、それは断片のように存在するだけで十分である。断片を繋ぐのは観客の想像力に他ならない。観客に想像させ、創造する。コンテンポラリーダンス、演劇、音楽、もはやジャンルを問う必要などないだろう。この感覚はそれこそ「地点」の「三人姉妹」を観た時と非常に近い。ポストトークでは三浦さんのしゃべりも始めて聞いたけれど、言葉は決して多くないのに鋭い指摘が多く、想像していた通り「切れ者」の印象だった。

 終演後、ダンス批評家の桜井さんと、学科の子に会い、恒例?の劇場打ち上げにちゃっかり参加。三浦さんと話す機会もあり、有意義でした。

 
by uronna | 2005-02-12 02:22 | 劇評、書評、映画評

復活。


by kawasaki Alice